次に取り上げるのは、17世紀初頭に成立した小瀬甫庵の『甫庵太閤記』である。甫庵は秀吉などに仕えた儒学者であるが、同書の内容は誤りが少なくなく、信が置けないと評価されている。同書が記す秀吉出生の経緯は、次のものである。

「父は尾張国愛智(知)郡中村の住人で、名を筑阿弥という。あるとき母の懐に日輪が入る夢を見るとすでに懐妊しており、こうして秀吉が誕生したので童名を「日吉丸」とした」(現代語訳)

 この史料では、父が筑阿弥となっており、弥右衛門の名は出てこない。ちなみに筑阿弥は、織田信秀(信長の父)のもとで御伽衆を務めていたという。おまけに母の胎内に日輪が入った夢を見て妊娠し、やがて秀吉が生まれたというのは荒唐無稽すぎる。

 『甫庵太閤記』では筑阿弥を秀吉の実父としているが、他の史料では(木下)弥右衛門を実父とするものが多い。秀吉の父を一百姓ではなく、信秀配下の御伽衆にしたいと考えたのであろうか。

 そして次は、秀吉の御伽衆・大村由己の『関白任官記』である。同書は、秀吉の意向に即して執筆された史料になろう。以下に、その関係部分を記す。

「その(秀吉の)素性を尋ねてみると。祖父母は朝廷に仕えていたという。仕えていたのは萩の中納言という。今の大政所(秀吉の母)が三歳のとき、ある人の讒言によって遠流になり、尾張国飛保村雲というところで日々を過ごした(中略、ある都人から大政所に歌が贈られる)。かの中納言の歌である。大政所殿は幼年にして上洛し、朝廷に三年にわたって仕え、程なく一子が誕生した。今の殿下(秀吉)である」(現代語訳)

 秀吉の祖父母は、荻の中納言なる人物に仕えていた。秀吉の母は3歳のときに尾張国に流されたが、荻の中納言に呼び戻され、落胤(らくいん)として誕生したのが秀吉なのである。つまり、秀吉は正親町(おおぎまち)天皇の子ということになる。

 荻の中納言なる人物は史料で確認できず、話の筋もまったく荒唐無稽な内容となっている。由己は、何とかして秀吉を天皇の血統である皇胤(こういん)に結び付けようと考えたのであろう。あるいは、秀吉から指示があったのかもしれない。この説は完全に否定されている。

 竹中半兵衛重治の子息、竹中重門の『豊鑑』(17世紀初頭成立)には、秀吉の父祖について2カ所にわたり、気になる記述が見られる。次に、その部分を掲出しておこう。

「(秀吉は)尾張国に生まれ、「あやし」の民であったが…」

「(秀吉は)郷の「あやし」の民の子であったので、父母の名も誰かわからない。一族についても、同じである」(現代語訳)

 歴史学者の服部英雄氏は「あやし」の語に「賤」という字を当て、秀吉が卑賤の出自であったと指摘し、秀吉の賤民出自説の一端へと繋げている(『河原ノ者・非人・秀吉』山川出版社)。

 しかし、「賤(いやしい)」には「あやし」という読み方はなく、「怪し」つまり「得たいが知れない」と考えるべきだろう。それが、イコール卑賤(ひせん)を意味したと解釈したほうが自然である。この点をもう少し詳しく検討してみよう。
豊臣秀吉を祀る豊国神社=京都市東山区
豊臣秀吉を祀る豊国神社=京都市東山区
 秀吉が「あやし」の民であったことについては、興味深い史料が残っている。天正18(1590)年、名胡桃城(群馬県沼田市)をめぐる後北条氏と真田氏との争いが端緒となり、秀吉は介入せざるを得なくなった。その際、秀吉は北条氏に直接宛てた宣戦布告状の中で、次のように記している。

「秀吉、若輩(若い頃)に孤(一人)と成て(以下略)」(『言経卿記』)

 この後、若き頃の秀吉が信長に従った過去の出来事などが綴られている。わずか1行にも満たない文章であるが、秀吉自身の言葉でもあり、かつ自分の存在を誇張するものでもない。そう考えると、『豊鑑』の「父母の名前もわからない」という記述は、まんざら嘘でもなさそうだ。秀吉は幼くして、孤児になった可能性がある。