それまでは情報がどのくらい社会に拡散するかは、それを発信するメディアの器の大きさによって決められていた。一つのニュースがどの新聞、あるいはどのテレビに取り上げられるかで拡散の度合いは決められていたのだが、ネットはその制限を軽々と飛び越える。

 例えば、この1~2年で、私がネットで書いた記事は、多いものは1本で200万とか300万のアクセスがある。私の本業は雑誌編集者だが、雑誌の世界で200万という数字は、発行部数としてありえない。ネットだからこそだ。

 これまで既存メディアが持っていた発行部数や視聴者数といった器の大きさに規定された影響力をネットは超えてしまう可能性を持っている。

 だが、そういう新しい革命的な道具が市民にもたらされたにもかかわらず、残念ながらそれを使いこなす力が市民社会にまだ備わっていない。特に匿名で発信できるというメリットが悪用されて、人権侵害や差別的な書き込み、事実と異なる情報などがネットにはあふれている。人類はせっかく手にした道具をまだ使いこなせていないのだ。

 既存のメディアは長い歴史の中で、訴訟を受けたり、痛い目にさらされたりする経験を通じて、ある種のルールを確立していったのだが、ネット社会はまだそういう歴史的経験を経ていない。ルールの確立はまだこれからだ。

 さすがにネット社会の進展とともに、利用者にもある種のリテラシーが働くようになってはいる。ネット情報をそのまま鵜呑みにしないという程度のリテラシーは、今や誰でも持っていると言える。

 裏の取れていない怪しげな情報でも、インパクトのある見出しをつけたりすると検索エンジンの上位に来たりするが、時間がたつと次第に淘汰されて順位が下がっていく。メディアリテラシーがネット社会でも少しずつ浸透しつつあるのだ。

 ネットの情報を読み解く力を市民社会がもっと高め、情報の流通にも一定のルールが作られるようになって初めてインターネットは本来の革命的な威力をもたらすはずだ。今はまだその過渡期で、こういう進歩は10年単位のスパンで考えねばならないのかもしれない。
80年代に5誌が競合して、全盛を誇った写真週刊誌
80年代に5誌が競合して、全盛を誇った写真週刊誌
 既にネットの情報をめぐっても訴訟沙汰になる事例が増えているというが、そういう試みを経ることで既存メディアもある種のルールを作り上げてきた。

 出版などの世界ではよく「思想の自由市場」という言葉が使われる。ルール違反の言論は、市場原理によって淘汰されていくという考え方だ。例えば1980年代半ばに写真週刊誌ブームが吹き荒れ、タレントのプライバシー侵害というべき記事を読者が面白がって読んでいた時代があった。

 しかし、市民社会の進展とともに、同じようなことを自分がやられたらたまらないという想像力が働くようになり、極端なプライバシー侵害には批判的な空気が高まっていった。

 その結果どうなったかというと、一世を風靡(ふうび)した写真週刊誌市場が一気に縮小していった。市民社会にある種のバランスが働いているためで、本当はそういう「思想の自由市場」を信頼し、国家的規制など加えずに情報や言論が流通する社会が望ましい。