安冨歩(東京大学教授)

 日本の大学の女性差別は、世界最高水準である。例えば、私が勤務する東京大学の女性教授の割合は、20世紀末の段階で1%を切っていた。その後飛躍的に改善したが、2017年5月1日時点で、教授1268人のうち、女性は86人、約6・8%にすぎない。准教授でも、941人のうち112人、11・9%にとどまる。つまり、今後、20年くらいたっても1割程度にとどまる可能性が高い。

 そもそも学部学生の女性比率がいまだに、1万4002人に対して2711人、19・4%となっており、どんなに頑張っても2割を超えることはなかろう。

 これは東大に限ったことではなく、日本全体で見てもそうである。文部科学省科学技術政策研究所の発行した『日本の大学教員の女性比率に関する分析』(2012年5月)によれば、2007年時点までのデータであるが、大学の本務教員の女性比率は人文科学では何とか2割から3割近くに達しており、また社会科学の分野は従来、理工系より少なかったものが、急速に改善している。

 しかし、理系は相変わらずであり、特に工学系の伸びが悪く、数%の域を出ない。国立大学では、工学系や医学系の教員が圧倒的に多いので、全体としての改善が遅くなっている。

 もちろん、大学教員は主観的には女性を差別しているつもりはなく、それどころか、教員採用では多少無理をしてでも女性を採用しようとしていて、にもかかわらずこのありさまなのである。ということは、これは、社会構造に起因する差別であって、大学関係者の努力だけでどうにかなることではない、と私は考えている。

 ここで「構造」と言っているのは、人々の行動の「前提」として機能し、かつ、人々の行動によって支えられているものである。誰もが、「世の中は当然こうなっている」と考えて、それを前提として行動し、その結果として、「当然こうだ」と思っていることが維持されると、それが構造となる。当然こうだ、ということは、無意識に刷り込まれていて、意識化されることすらない。
東大東洋文化研究所の安冨歩教授
東大東洋文化研究所の安冨歩教授
  例えば、「女が無理していい大学に行ってもいいことはないし、研究者になろうとしたら苦労するだけだ」と多くの人が前提にし、それにあわせて意思決定しているなら、その結果として前提が維持される。日本社会は、その罠から抜け出せていないのである。その前提を打ち破らない限り、いかなる制度改革や政策も効果がない。

 この悲惨な状況を前提とするなら、女子大学の存在意義は全く衰えていない。かつて女子校は「良妻賢母」というような、女性差別を前提としてそれに順応する教育を期待されていた。しかしそれを逆手にとって、性にもとづく差別と戦うための拠点として自らを位置づけるなら、その意義はますます大きいとさえいえるだろう。