中村武生(京都女子大非常勤講師)

 京都守護職、会津侯松平容保(かたもり)といえば、指揮下にあった新選組などを使い、長州毛利家を政界から追放した主体者として知られる。元治元年7月(1864年8月)、長州が「ミヤコ」である京都に攻め込んだ元治甲子戦争(禁門の変)は、容保の首級(しるし)を狙って起こしたものである。会津と長州は仇敵同士といえる。

 ところが、当初はそうではなかった。むしろ会津松平家は、毛利家を模範に政治活動を行おうとしていた節さえある。意外なことではないか。今回はそれについて論じよう。

 文久2年5月(1862年5月)以来、江戸城での徳川公儀の政治に参加していた会津容保が、京都守護職に任命されたのは同年閏(うるう)8月1日(1862年9月24日)である。その1カ月半後の9月17日、上洛(じょうらく)を前にして容保は、今後の外交方針などについて公儀に対して建言をした。守護職着任を意識した重要なものといえる。要約してみよう。

(1)守護職に就く以上、天子(統仁=おさひと、孝明天皇)の希望を優先する。天子が「鎖国・攘夷(じょうい)」を望んでいる。それに応えるべきである。京都の民はもちろん、西国大名や浪士に至るまで「開国」支持者はいない。
(2)それにもかかわらず、公儀の役人が外国人を大切に扱ってきた。それに対する不信が募り、変乱がおきている。天子も公儀の信用希薄となったので、諸大名を頼るようになった。つまり公儀役人のせいで「公武一和」がかなわない。
(3)具体的には現在進められている、品川御殿山の各国公使館設置と、江戸に外国人が滞在すること、長崎、箱館、横浜の三港以外(とりわけ摂津・和泉)の開港に反対する。三港を維持することは天子も受け入れてくれるはずである。
(4)諸外国はそれぞれ交流し、利益を得ている。わが国のみ「鎖国孤立」はいけない。「長所」を得られないからである。安政5(1858)年に通商条約を締結し、それ以来外国と「往来・互市(通商)」して「大艦・巨砲」ができ、海軍の備えも立ち、武備充実の助けとなったことは明らかである。
(5)三港は開いたままとして「条約制度改正」を行い、もしその制度を外国が違反して「無礼・不敬」があれば打ち払えよい。それならば「攘夷」をのぞむ天子の意向にかなう。
(6)今後は、公儀役人も外国との決戦の覚悟を持つべきである。
(7)港の「開鎖」については、来春の将軍上洛までに諸大名から意見を聞き、逐一天子に奏聞(そうもん)して最良の決定をすべきである。そうでなくては守護職を担えない。
(8)決定した担当者はどんな者でも信任すべきである。その姿勢が諸外国からの信頼にもつながる。武備充実は目先のことであってはならない。


 以上である。では、中身に立ち入ってみよう。容保は、天子の意向に従うべきだ、天子は「鎖国・攘夷」を望んでいると記しながら、自身は「鎖国」に反対している点が注目される。

 容保は必ずしも天子のイエスマンであろうとはしていない。容保にとって、わが国の武備充実が最重要で、軍艦の入手や台場建設に利益のある西洋諸国との通交は避けがたいのである。

後年の松平容保(国立国会図書館蔵)
 その上で、容保の「攘夷」とは、

・三港以外の開港禁止
・外国人の江戸闊歩(かっぽ)を許さない
・品川御殿山の外国公使館の建設反対
・列島住民以上に外国人を大切にしてはならない
・現条約を破棄し、新条約を締結する
・新条約に違反する諸外国とは戦う
・「開鎖」については諸侯の意見を聞き、逐一天子に奏聞する


というところであろう。