これに毛利家家臣は反発した。容保の建議から3カ月後の12月12日(1863年1月31日)、高杉晋作や久坂玄瑞らによって、この公使館は焼き討ちされたのである。

 どうして容保は毛利家と同一の意見を持つようになったのであろうか。実は、毛利家から情報を得ていたのである。

 京都守護職に任じられた容保は、直後から京都に家臣を送り、情報収集を行わせていた。その一人である秋月悌次郎が、容保の建議の前月である閏8月に長州の桂小五郎に書簡を宛てている。それが複数残されている。

 まず、同月4日付には「このたび主人(容保)が大任を命じられましたが、いまだ修行中の身なので、家来に人材がいないとはいえ、とても当惑しています。お察しください。つきましては京都の事情をはじめ、良いお考えがあられましたら詳しく拝聴いたしたいので、どうか心に思っておられることを包み隠さずご教示願いたいです」とある。

 ついで、同16日付の書簡によると、秋月は前日に桂に会えたようで、「親切なご論議を拝聴できました。感激の至り」と謝している。その場で桂から、公儀役人が威を張り、大きな害のあることが示された。

長州の京屋敷の跡地に立つ
木戸孝允(桂小五郎)の銅像(恵守乾撮影)
 そこで、秋月は桂にそれを文章にしてほしいと望んだ。書簡には「そのまま主人(容保)へ示し、きっと説得しますので、どうかお願いします」とある。桂から学んだ情報を秋月はそのまま容保に伝えようとしているのである。

 その後も2人は何度か面談した。その後の同月21日付の書簡に、秋月が「主人(容保)は御殿山について、取り払う(廃止する)ように運ぶ予定ですので、ご相談したいです」と述べているのは注目に値する。御殿山の各国公使館の建設反対について、桂から学んでいることが知れるのである。

 これほど指導を受けて京都政局に乗り込んだ容保が、なぜこの後、長州毛利家と仇敵の関係になるのであろうか。これにはさらなる検討が必要といえる。この謎は次回以降に明らかにしていきたい。