むしろ、これらの日の丸に集うサッカーファンは、他国と同じようにカラフルな国旗のもとに喜びを謳歌(おうか)しているのであって、むしろ国際的なのではないか。政治や民族主義や、果てはビジネスまでもが複雑に絡み合う世界中のサッカーシーンを見聞きしてきたジャーナリストは、日本のおおらかなサッカーが巻き起こす風景を、いわば「害のない」ものと考えた。

 しかし、これは本当にそうなのだろうか。

 RADWIMPSというバンドが、サッカー番組用につくった曲のカップリング『HINOMARU』が復古調ということで批判を浴びたのはW杯開幕直前のことだ。

意味もなく懐かしくなり こみ上げるこの気持ちはなに
胸に手をあて見上げれば 高鳴る血潮、誇り高く
この身体に流れゆくは 気高きこの御国の御霊
さぁいざゆかん 日出づる国の御名の下に

 靖国神社の絵馬にでも書いてありそうな、どこからか引っ張り出した語彙(ごい)でつづられており、申し訳ないが、稚拙な愛国ポエムでしかない。これに感情移入できる若者がどれだけ日本にいるかについては興味深いが、その一方で、このような戦前復古を感じさせる歌詞への批判が、より多く集まるのはわからないでもない。

 サッカーに政治を持ち込むな、というのは大方のサッカーファンは同意するだろう。無邪気なナショナリズムならば、それはスパイスとしては香り高いものになるだろうが、そちらが目的ということであれば、単にサッカーを楽しみたいという人にとっては迷惑この上ない。

 なぜなら、これまでサッカーがナショナリズムを引き寄せて、酷いことになった例は枚挙にいとまないからだ。そして、それは簡単に差別的な思考に直結する。

 国家とは得体の知れないものだ、というのが自分の理解である。その得体の知れなさは、ある時はW杯で日本代表が優勝候補のベルギーを相手に善戦し、それにより私たちの仲間が世界で名を挙げたことが、老若男女、貴賤も職業も年収も問わずに熱狂させることもある。

2018年7月、日本の敗戦に肩を落として
東京・渋谷駅前の交差点を渡るサポーターら
 かたや、危険な愛国主義のダークサイドの誘惑もありうることは強調しておきたい。私がこれまで多数話を聞いてきたいわゆる「ネット右翼」の人たちが、2002年のワールドカップが彼らの転機になったと語った。

 サッカーそのもののコンセプトにはもともとナショナリズムとコスモポリタニズムが表裏一体となっているところがある。人はそのどちらかに、ある時は全く矛盾することなく両方に誘引されていく。渋谷のハイタッチフーリガンは、休日用のナショナリズムを謳歌しながら、その危うい境界線上にいるわけだ。

 もちろん、大方の人は休日が終われば日常に帰り、仕事や趣味や恋愛や育児といった自分たちの幸福のために時間を費やしていくことになる。そしてその中から、本当にサッカーにハマってしまう人もいるだろう。サッカーは世界をつなぐ共通言語だというコスモポリタニズムを素直に受け入れる人もいるだろう。だが、一方で、私たちは境界線から転げ落ちてしまう人も見ることになる。