橋場日月(歴史研究家、歴史作家)

 斎藤龍興に上洛(じょうらく)の野望を妨害され、あまつさえ「河野島の戦い」(1566年)では、いつも味方してくれる雨までが作戦の邪魔をしたために赤っ恥をかかされた信長。復讐(ふくしゅう)の念に燃える彼は、明くる永禄10(1567)年8月、斎藤家重臣の「西美濃三人衆」こと稲葉良通(一鉄)・安藤守就・氏家直元(卜全)の3人を寝返らせると同時に、龍興の本拠、美濃・稲葉山へ攻めかけた。

 皆さんよくご存じのように、稲葉山城=後の岐阜城がある金華山は、標高329メートルの非常に高く険しい山だ。しかし、この山は小牧山のように平地に独立しているわけではなく、長良川南岸沿いに広がる山塊の中で一番北にある高い山、という形となっている。

 これに対し、信長が攻撃のために布陣したのは、その南西に連なる尾根伝い、158メートルの山だった。

 むろん、東の尾根伝いにある西山、南東の洞山、さらにその東の三峰山、その北の舟伏山など、占拠できる山にはすべて織田軍が布陣し、占拠できない山には麓に抑えの兵が展開しただろう。そんな中で信長自身が南西の山を本陣としたという事実は、とても興味深い。

 彼は本拠の小牧山城、そして最前線の犬山城から美濃に侵攻するわけだから、南東の洞山に本陣を置いた方が、後方との連絡や退却路の確保など、何かと都合が良いはずなのだ。

 ここで『信長公記』の記述から、その作戦の様子を紹介してみよう。

「急に出陣し、稲葉山の尾根続きの瑞龍寺山へ登った。斎藤勢が『これはどうしたことか、敵か味方か』と言い合っている間に、素早く城下の町に放火し、あっという間に裸城にしてしまった」
金華山(稲葉山)山頂にある岐阜城=4月23日、岐阜県岐阜市(産経新聞社ヘリから、門井聡撮影)
金華山(稲葉山)山頂にある岐阜城=4月23日、岐阜県岐阜市(産経新聞社ヘリから、門井聡撮影)
 その日は強風が吹いていたということで、それを利用して城下の井ノ口を焼き払って稲葉山城の麓を無防備にした。その上で城の周囲に柵を結いめぐらせて完全に包囲を完了した、という流れだ。

 いや、ちょっと待ってほしい。うっかり読み流してしまったが、ここで信長が本陣を置いた稲葉山の南西の名前に注目してみよう。「瑞龍寺山(ずいりょうじやま)」である。

 この山は全体が瑞龍寺という大きな寺域で、南麓に伽藍(がらん)が建ち並ぶ。山の最頂部には瑞龍寺山頂古墳群があり、岩をくりぬいた前方後方墳が残されている。

 確かに信長が本陣を置くには格好の場所だが、それよりも何よりもやはりその名前が「瑞龍寺山」だったことに、大蛇=龍を信奉しその力を自身のものにしようと努める信長は惹かれたのではないか。