いや、それだけではない。山の北側に続く伊奈波山に鎮座する伊奈波神社という古社には、その名も「黒龍神社」と呼ばれる龍神が祀られているのだ。この社の黒龍大神は、伊奈波神社がこの地に勧請(かんじょう)される以前から山の守り神として信仰を集めていたといい、さらに瑞龍寺の南向かいには「金竜」という町名もある。

 「金」は陰陽五行の思想では「水」を制する力を持ち、稲葉山が「金華山」、瑞龍寺山が「金宝山」、他にも周辺に「金」が付く地名が多いのも、一帯が長良川の水を支配する結界となっていたことを示している。信長がこの地を本陣に最適だと選んだのも無理はない。

 そう、熱田社が「大蛇=龍」を祀る社であり、小牧山が飛車山(ひくまやま)と呼ばれ、龍音寺の境内だったのと同じだ。龍の力を以て仇敵を制する。桶狭間の戦い以来続けてきた信長は、この稲葉山城攻めでもその信念を貫いて戦いを勝利に導いたのだ。

 ここで「いや、ちょっと待てよ」とおっしゃる向きがいらっしゃるかもしれない。「信長はこのとき、瑞龍寺を焼いているじゃないか。龍を尊重するなら、そんなことはしないだろう」と。

 確かに、瑞龍寺はこの戦いで織田軍に焼き討ちされ、伽藍はすべて烏有(うゆう)に帰したと伝えられている。しかし、それは本当なのだろうか。

 この戦いからちょうど1年後の永禄11(1568)年8月、信長は瑞龍寺に禁制を与えているのだが、その中にこうある。

本朝智仁英勇鑑 織田上総介信長(都立中央図書館特別文庫室所蔵)※無断複製、二次使用禁止
本朝智仁英勇鑑 織田上総介信長
(都立中央図書館特別文庫室所蔵)※無断複製、二次使用禁止
 「当寺ならび門前の竹木を伐採してはいけない。寺や門前町に課税・布陣・宿営するな。外山で刈り取りするな。先の規定の通りとする」

 焼き討ちされ全焼した寺の境内に、1年後にもう実用に耐えるような太い竹や木が生えているわけがないではないか。また、いくら復興が早く行われたとしても、軍勢が陣を置いたり宿泊したりできるような大規模な伽藍や町家がもうできあがっているものだろうか。

 外山(伽藍の背後にある瑞龍寺山)の芝などを刈り取るなというのも、寺院が全焼するほどなら当日の強風下、方角からして火攻めで丸焼けとなった稲葉山麓同様に炎上し、はげ山と化して信長が本陣を置くどころではなかったはずだ。