『増訂 織田信長文書の研究』(吉川弘文館)では焼失にともない、寺は1年遅れで禁制をもらったと説明する。また、天正8(1580)年9月に信長の嫡男、信忠が長良川の水運を利用して瑞龍寺へ運搬する木材について免税していることを挙げて、焼失した瑞龍寺の再建のためのものだとしている。

 だが、これはどちらもおかしい。それでは「先の取り決め」は斎藤氏時代のものとなってしまうし、稲葉山城攻めから13年もたったこの時期まで、復興作業は放置されていたというのだろうか。

 天正4(1576)年に岐阜城を信長から譲られていた信忠は、この天正8(1580)年に長良川の河原に高さ8尺(2・5メートルほど)の築地(塀)を築いて馬場にし、家中の士の馬術訓練に供するなど、城下の整備を行っている。瑞龍寺の資材運搬についての免税証文にも「再建」ではなく「建立」の文字が使われており、これも市街整備の一環としての新築・造替事業だったのだろう。

 瑞龍寺は信長の稲葉山城攻めの際にすでに禁制を授けられていた。そして寺は翌永禄11(1568)年9月7日に上洛作戦を行う前に、大軍の集結によって荒らされるのを防ぐために再度信長の禁制を手に入れたものと考えられる。

 戦国時代、瑞龍寺山には砦があったというから、稲葉山城攻め当時、斉藤氏の支城として機能していたはずだ。そのため、信長が本陣を置く際の急襲を最小規模の戦闘に抑えたとしても、瑞龍寺の伽藍が若干の戦禍を受けたとは考えられる。しかしそれはあくまで限定的で、信長はその保護を優先したといえる。
織田信長公像=崇福寺所蔵(中田真弥撮影)
織田信長公像=崇福寺所蔵(中田真弥撮影)
 ともあれ、稲葉山城は瑞龍寺山の信長以下、周囲を厳重に包囲され、援軍の見通しもなく孤立した斎藤龍興は降伏して城を明け渡し、伊勢へと落ち延びていった。この後、龍興は朝倉義景に保護され、最後まで信長に敵対し続けることとなるのだが、その話はまた別の機会に。ここでは、信長が占拠した稲葉山城をどう扱ったか、という話をしたい。

 『信長公記』いわく、「小牧山から稲葉山へ移転し、井ノ口という地名を改めて岐阜と名付けた」。清洲から小牧山、さらに稲葉山と本拠を前進させ、稲葉山の城から山下の町までを岐阜と改名したのだ。現在の「岐阜県」「岐阜市」につながる、岐阜の誕生である。