この改名について考えてみよう。一般的には、信長の重臣、平手政秀の菩提(ぼだい)寺の開山も務めた沢彦宗恩(たくげんそうおん)が信長からネーミングを依頼されて、「岐山」「岐陽」「岐阜」の3案を提示し、その中から信長が「岐阜」を選んだ、とされている。典拠となった『安土創業録』(江戸時代中期成立、名古屋市逢左文庫蔵)の該当箇所は、

「沢彦和尚へ使者を以て爰(ここ)に来り給へと宣(のたま)う」
「信長、沢彦に対面せられ井ノ口は城の名悪し、名を易(かえ)給へと(言った)。沢彦老師、岐山・岐陽・岐阜、此(この)内御好(このみ)次第に然るべしと。信長曰(いわく)、諸人云(いい)良き岐阜然るべしと」
「沢彦曰、周文王岐山に起こり天下を定むるとの語あり。此(これ)を以て岐阜と名付候。程なく天下を知ろし召し候はん」

となっている。皆が言いやすい「岐阜」が最適だと決めた信長に対し、沢彦は「古代中国の文王は岐山の麓の出身で周王朝を建てました(実際は子の武王の代)。それを参考にしてご提案した名称の一つなので、信長様は間もなく天下をしろしめす(治める)でしょう」と説明したため、信長はひどく喜んだという。

 ところが、「岐阜」の名称については諸説あって、『土岐累代記』には「岐阜と号する事は、往古よりの称号にて、明応より永正迄の旧記に多く載する」と書かれている。

 実際、その時代の美濃国守護、土岐成頼の画像賛には「岐阜」の名称が使われ、それどころか、さらに時代をさかのぼった『梅花無尽蔵』『仁岫語録』などの応仁頃の史料にも、「岐陽」「岐阜陽」といった名称が登場している。

織田家の家紋などを描いた「城御朱印」
織田家の家紋などを描いた「城御朱印」
 さらに、信長の時代にも、永禄4(1561)年の斎藤義龍の葬儀の際に捧げられた偈(げ・仏徳をたたえ、または教理を説く詩)に「岐阜稲葉城主一色左京太夫義龍公」と書かれているし、土岐一族とされる高僧、快川紹喜(かいせんじょうき)が永禄7(1564)年に美濃から甲斐恵林寺へ戻るまで、しばしば「護阜快川」と署名した。

 これらを見ると、確かに「岐阜」は信長以前から稲葉山周辺の別の名称として使われており、沢彦が発案したわけではなく、その別名を知っていただけということになるだろう。しかも、信長は何も天下統一を心願として「岐阜」の名称を選んだわけではなく、後からその意味を知らされただけだったというのは『安土創業録』も証言している。

 つまり、「岐阜」には、周王朝の故事にならっての天下統一の意味は込められていなかったのである。