井上文則(早稲田大文学学術院教授)

 今から1500年前、陽光輝く北アフリカの地にゲルマン民族の一派、ヴァンダル人の王国があった。この王国の歴史は一見、歴史ロマン以外のなにものでもない。

 ゲルマニア地方の薄暗い森の中から出てきた金髪碧眼(へきがん)のヴァンダル人が長い流浪の末、「英雄王」ガイセリックに率いられてイベリア半島から北アフリカへ渡り、自らの王国を建設した。この王の下でヴァンダル人は強勢を誇り、地中海沿岸各地を海賊のように荒らし回り、455年には「永遠の都」ローマを攻略する。

 だが、その後、王国は100年ほどの命脈を保つが、最後はビザンツ皇帝ユスティニアヌスの送り込んだ遠征軍によってあっけなく滅ぼされ、地上から跡形もなく消え去ったのである。しかし、この興亡が歴史ロマンに感じられるのは、われわれがあくまでもヴァンダル人の側に立っているからである。

 ヴァンダル人が王国を建てた土地は、ローマ帝国の領土の一部であったのであり、ローマ帝国の住人にとっては、彼らは侵入者であり、征服者であった。ローマ帝国は、なぜ彼らの北アフリカ征服を許してしまったのだろうか。

 ヴァンダル人がライン川を渡って、ローマ帝国領に侵入したのは、406年の大みそかの日であった。アラン人とスエビ人もヴァンダル人と行動をともにした。彼らは、女子供を伴っており、何らかの事情で元の居住地を追われた人たちであったのであり、今日の言葉で言えば「武装難民」であった。

 ヴァンダル人たちは3年間、ガリア(現フランス)の地を荒らしまわった後、409年にはピレネー山脈を越えて、イベリア半島に入り、その地にいったん住み着いた。ヴァンダル人はハスディングとシリングという二つの部族から成っていた。

 ハスディング系ヴァンダル人はガラエキア(スペイン北西部)を、シリング系ヴァンダル人はバエティカ(スペイン南西部)を、アラン人はルシタニア(ポルトガル)とカルタギニエンシス(スペイン中南部)を、スエビ人はガラエキアの北西部を、それぞれ分捕った。

 このようなヴァンダル人らの動きに対して、ローマ帝国政府は即座に反応することができなかった。当時、本国のイタリア自体が、バルカン半島のゴート人によって脅かされていたからである。
イタリア半島に侵入した、ガイセリックに率いられたヴァンダル人たち(ゲッティイメージズ)
イタリア半島に侵入した、ガイセリックに率いられたヴァンダル人たち(ゲッティイメージズ)
 そもそも、ヴァンダル人たちがライン川の国境を突破できたのも、イタリア防衛のためにライン川の国境からローマ軍が大幅に引き上げられていたからであった。イタリアのためにガリアは犠牲になったのである。この処置を取ったのは、当時、政府の実権を握っていた将軍のスティリコであったが、スティリコの父親はヴァンダル人であった。

 ガリアに入ったヴァンダル人たちにさらに幸いしたのは、407年にブリテン島でコンスタンティヌス(3世)なる軍人が反乱を起こし、皇帝を称して、ガリアに乗り込んできたことであった。このためスティリコは、ヴァンダル人たちよりも、まずは簒奪(さんだつ)帝コンスタンティヌス3世を相手にしなければならない状況になったからである。