激戦地の一つであったマニプール州の2926高地近くのグルモハン・シン氏はこう語る。

 日本の兵隊さんは命を張って私たちを戦場から逃し、戦ってくれました。いまこうして私たちがこうして生きていられるのも、みんな日本の兵隊さんのおかげだと思うと感謝の気持ちでいっぱいになります。一生この気持ちは忘れることはできません。


 そして、この丘の麓のロトパチン村には、現地の人々によって建てられた日本兵の慰霊塔があり、毎年日本兵の供養が行われているという。この慰霊塔建立の推進役となったロトパチン村のモヘンドロ・シンハ村長はこう語っている。

 日本の兵隊さんは飢えの中でも実に勇敢に戦いました。そしてこの村のあちこちで壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動のすべては、みんなインド独立のための戦いだったのです。私たちはいつまでもこの壮絶な記憶を若い世代に残していこうと思っています。そのためここに兵隊さんへのお礼と供養のため慰霊塔を建て、独立インドのシンボルとしたのです。


 また、別の激戦地コヒマでも同じく、日本軍は称賛されている。日本軍が去った後にコヒマに群生しはじめた紫の花が「日本兵の花」と名づけられ、そして日本軍兵士によって仕留められた英軍のM3グラント戦車が「勇気のシンボル」として保存されているというのだ。

 そして、われわれ日本人が絶対に忘れてはならないのが、大東亜戦争終結後、日本にすべての戦争責任をなすりつけた「復讐(ふくしゅう)劇」の極東軍事裁判(いわゆる「東京裁判」)で、その裁判そのもの不当性を訴えて日本人被告全員を「無罪」と主張したインド代表のラダ・ビノード・パール判事であろう。

 日露戦争の際に19歳だった彼は、そのときの感動を次のように述べている。

 同じ有色人種である日本が、北方の強大なる白人帝国主義ロシヤと戦ってついに勝利を得たという報道は、われわれの心をゆさぶった。私たちは、白人の目の前をわざと胸を張って歩いた。先生や同僚とともに、毎日のように旗行列や提灯行列に参加したことを記憶している。私は日本に対する憧憬と、祖国に対する自信を同時に獲得し、わななくような思いに胸がいっぱいであった。私はインドの独立について思いをいたすようになった。

1944年、飢えと病気で次々と倒れ、歩ける者だけが生き残った「インパール作戦」の敗走路=タイ・ミャンマー国境付近(井上朝義氏撮影)
1944年、飢えと病気で次々と倒れ、歩ける者だけが生き残った「インパール作戦」の敗走路=タイ・ミャンマー国境付近(井上朝義氏撮影)
 つまり、近現代史における日本の軍事行動がインドの独立に大きく寄与し、そしてこうした近現代史の共鳴が、インドを世界屈指の親日国家にしていったのである。

【参考文献】
・靖国神社「遊就館」
・日本会議事業センターDVD『自由アジアの栄光』
・ASEANセンター編『アジアから見た大東亜戦争』(展転社)
・名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』(展転社)
・田中正明著『パール博士の日本無罪論』(慧文社)