差別を「正当な処遇」だと結論づける根拠の多くが「差異」である。つまり、差別ではなく単なる差異を評価しているだけだ、というのである。

 例えば、高卒者と大卒者で賃金の差をつける募集要項の「差別」が問題にされることはほとんどない。ミスコンテストの応募に「18歳以上25歳まで」と制限があっても年齢差別だという批判はめったに起きない。これらは単なる差異を認めているだけなので、差別ではないと思われているからである。

 差異か、差別か。わが国でもほんの数十年前まで、性別は問答無用で「単なる差異」だと思われてきた。男女の賃金が違っても、昇進に差が生じても問題ないとされてきた。

 筆者の祖母は80代であるが、彼女が国立大の付属高校を受験したとき、女子の定員は男子の3分の1しかなかったそうだ。私立ではなく国立の話である。

 みんな、それが当たり前だと思っていた。男子と女子では生き方が違うのだから「女子に高等教育はいらない」という時代だったのである。今、同じことを全国屈指の名門、筑波大付属駒場高がやれば、きっと大きな問題になるだろう。

 社会学者で横浜国立大の江原由美子教授は、『女性解放という思想』(1985年、勁草書房)で次のように述べている。

 「『不平等』を『不平等』として認識させるためには、論理的に、差別者と被差別者が同一カテゴリーであるということを根拠とせざるをえない。しかし、『不平等』が『不平等』として認識されない社会においては一般に差別者と被差別者のカテゴリーが別であるということが『常識』となっている」
東京医科大の正門=2018年7月(萩原悠久人撮影)
東京医科大の正門=2018年7月(萩原悠久人撮影)
 今、東京医大の不正が問題になっているのは、入学試験を受ける者が全員、論理的には同一カテゴリーに属するにもかかわらず、女子(と3浪以上の男子)だけが明らかな不利益を被っていたからに他ならない。一方、不正を行った大学関係者や、この処置を「問題ない」と主張する人たちにとって、女子と浪人生は「男子とは別のカテゴリー」であることが「常識」となっている。