その「常識」は、「女性医師の多くが出産で離職するので、男性医師と比べて頼りにならない」という現場の意見に支えられている。労働環境が特に厳しい外科では「女3人で男1人分」との言い草もあるという。もはや、男女は別のカテゴリーとして捉えられているようである。男と女はライフコースが違うので、入試の処遇で差をつけるのは当たり前、不平等な差別とまでは言えないというわけだ。

 彼らのロジックを批判しようとするとき、社会の側は「男女の能力に差はないはずなのに、差別は不当だ」と、「差異の平等」を訴えなければならない。そもそも、男女を同じカテゴリーに入れて考えてもらわないと、「男女には差異があるので処遇の差は当然」と主張する人たちを説得できないからである。

 しかし、ここでフェミニズムが誤解されやすい、というより一度は通過しなくてはならなかった関門がある。実際には「差異」がない、もしくはそれほどの差異が認められないのに差別されることに対して不平等を訴えても、「そうですか、男女に差はないと言うのですね」と短絡的に解釈されかねないからである。

 次に行われるのは、果たして男性医師と女性医師の能力に差はあるのか、仮にあるとしたらどんな差なのか、という議論である。これでは問題の焦点がどんどんぼやけ、差別を訴える側はひたすら男女の差を検証していく作業へと巻き込まれていく。

 男女の能力差の検証がまったく無意味だとは言わないが、それだけでは差別問題の本質は見抜けない。それどころか「差異の検証」に終始することは、差別の正当化を暗黙に容認する結果すら導いてしまうだろう。「医療現場を調べたところ、男性医師は女性医師より出産による離職率が低いので女性より優秀であることが実証された。よって優秀な男子を入試で優遇することは正当化され、差別ではない」といった結論が出てしまいかねない。もしくは、極端かもしれないが、「女性医師の出産による離職が問題なので、女性医師の産休、育休を認めない」とか、「一定数の女性を強制的に外科や救急に配属し、出産を制限する」などの不当な処遇が「男女平等」の未来予想図にされてしまう可能性もある。

2018年8月、東京医科大前で
「#女だからというだけで」と書かれた
プラカードを掲げ、抗議活動する女性
 私たちは今一度、何をどうすれば「平等」だと言えるのか、そのイメージを明確にしなければならない。求めるものは何なのか。性別による差異があることは前提として、その差異をどう扱えばより社会的な理想に近づけるのか。

 男性医師と女性医師の差異をあげつらって「どちらが優秀か」などと泥仕合をしている場合ではない。また、ある分野で特に男性医師の労働力が求められているからといって、そこへ全員の医師が照準を合わせなくてはならない前提を疑ってかかることも必要だろう。

 本件をきっかけに、私たちは男女平等のあり方と医療現場の現状を考えるべきである。しつこいようだが繰り返したい。何をどうすれば「平等」だと言えるのか、はっきりしたイメージがないままに男女差を検証するだけの不毛な議論は、もう終わりにしたい。