渡邊大門(歴史学者)

 これまでの連載で触れた通り、豊臣秀吉は出自に謎が多く、まったく得体の知れない人物だった。ポルトガルの宣教師らが口々に述べている通り、その性格には異常性すら見られた。秀吉の残酷な性格については、数々の合戦における残酷な行為でも確認できる。今回は、上月(こうづき)城の戦い、三木城の戦い、鳥取城の戦いを取り上げて考えてみよう。

 秀吉の残酷な性格が表れた戦いには、天正5(1577)年12月に決着した上月城の戦いがある。上月城の戦いとは、織田信長と毛利輝元との全面戦争の緒戦だった。信長が西国方面の攻略を託したのは、頭角を現していた秀吉である。命を受けた秀吉は同年10月、播磨に向けて出発した。

 秀吉は竹田城(兵庫県朝来市)に弟の秀長を入れ置くと、いよいよ赤松七条家の一党が籠る上月城(兵庫県佐用町)へと兵を進めた。赤松七条家は毛利氏に味方をし、織田方に抵抗したのである。

 同年11月27日には上月城近くの福原城を陥落させ、秀吉の軍勢はいよいよ上月城に迫った。このとき、毛利方の宇喜多直家は、秀吉の軍勢と交戦して散々に打ち負かされ、敗走中に自軍の兵の首が619も取られたという。

 宇喜多勢を散々に打ち破った秀吉は、その余勢を駆って上月城に迫った。そして、上月城に激しい攻撃を行ったのである。その戦いの状況は、秀吉自身の言葉で次のように記されている(「下村文書」)。

(宇喜多氏との)合戦場から引き返し、いよいよ七条城(=上月城)を取り詰めた。水の手を奪ったこともあって、上月城の籠城者からいろいろと詫びを入れてきたが、(秀吉は)受け入れなかった。そして、返り猪垣を三重にして城外への逃亡を防ぎ、諸口から攻撃を仕掛け、十二月三日に城を落とした。敵兵の首を悉(ことごと)く刎(は)ね、その上に敵方への見せしめとして、女・子供二百人余を播磨・美作・備前の境目において、子供を串刺しにして、女を磔にして並べ置いた。

 秀吉の態度は強硬であった。城兵たちの命乞いを受け入れることなく、逆に逃げられないように柵を巡らすと、次々と敵兵の首をはねた。さらに見せしめとして、女、子供をそれぞれ串刺しにし、磔(はりつけ)にして晒(さら)し者にするなど残虐の限りを尽くしたのである。非戦闘員が残酷なかたちで処刑された例は、そう多くはない。
織田軍と毛利軍の攻防戦の地として知られる上月城跡=兵庫県佐用町 
織田軍と毛利軍の攻防戦の地として知られる上月城跡=兵庫県佐用町 
 ところが、『信長公記』(巻十)には、一連の事実について少し違った表現で記されている。該当部分を次に示すことにしよう。

(宇喜多氏との交戦後)秀吉は、引き返して上月城を取り巻き攻めこんだ。七日目(十二月三日)に上月城中の者が大将の首を切って秀吉のもとに持参し、「残党の命を救って欲しい」と懇願した。秀吉は上月城主の首を安土城の信長に進上し、お目に懸けた。すると、秀吉は上月城に立て籠もる残党を悉く引き出し、備前・美作の両国の境目に磔にして、悉く懸け置いた。

 ここで注意しなくてはいけないのは、秀吉が上月城を落としたのではなく、上月城内部の者が城主を裏切って首を獲り、それを秀吉のもとに持参したということである。先の書状では、あたかも秀吉の攻撃によって落城させた感がある。敗戦間近と見た上月城内の武将らは、城主を差し出すまでに追い詰められていた。

 城主の首を差し出した交換条件は、城内の者の命を救って欲しいというものであった。彼らが生き残るために、一縷(いちる)の望みを託したことは想像に余りある。しかし、秀吉は大将の首を安土城の信長のもとに届けると、約束を反故(ほご)にした。上月城内の残党を引き出し、備前・美作両国の国境に磔にしたのである。残酷であることには、何ら変わりがない。