秀吉の書状には記されていないが、『信長公記』が記すように、実際は城兵が大将の首を持参して降参したのであろう。しかし、秀吉はそれを許さなかった。『信長公記』に記されている残党とは、兵卒のほかにも城内に逃げ込んだ女、子供も含まれていたと考えられる。当時、戦争が起こると、城は周囲の非戦闘員が逃げ込む場でもあった。秀吉は容赦することなく、彼らを串刺し、磔にしたのである。

 女、子供を串刺し、磔にするという措置は、秀吉の考えに基づくものだった。すると、秀吉の容赦のない苛烈な性格が浮かび上がってくることになろう。秀吉も武将として成果を挙げない以上、厳しい立場に追い込まれるのは当然である。『信長公記』では、西国方面で奮闘する秀吉の活躍ぶりを次のように記述している。

(秀吉が)西国でしかるべき働きをして、(中略)夜を日に継いで駆け回り、秀吉の粉骨の働きは比べようもないものである。

 秀吉は昼夜を忘れ、信長のために軍功を挙げたゆえに、高い評価が与えられたのである。元の身分が低い秀吉にとっては、信長から目をかけられることが、もっとも重要なことだった。上月城の戦いで見せた秀吉の残虐性というべきものは、続く三木城攻めでも姿を現すことになる。

 秀吉の合戦における高い能力が発揮されたのは、天正6(1578)年3月から始まった三木合戦である。三木合戦は「三木の干殺し」と称され、長期にわたる兵糧攻めで知られる。以下、その流れを確認することにしよう。

 秀吉が中国計略を進める上で、最も頼りにした武将が別所長治である。別所氏は播磨国守護赤松氏の流れを汲む名族で、15世紀後半から三木城に本拠を置いていた。しかし、事態は思わぬ方向に展開する。同年2月、にわかに三木城主の別所長治は秀吉に叛旗を翻し、毛利方に寝返ったのである。
三木城跡の別所長治像(兵庫県三木市)
三木城跡の別所長治像(兵庫県三木市)
 ここから戦国史上に例を見ないほど凄惨な兵糧攻めとして有名な、「三木の干殺し」が展開される。では、当初信長に与することを約束した別所長治は、いかなる理由によって寝返ることになったのだろうか。

 別所氏が寝返った理由については諸説あり、中でも注目されるのは、別所氏が出自の卑しい秀吉を愚弄(ぐろう)していたという説である。三木城の戦いの顛末(てんまつ)について記した、『三木合戦軍図縁起』には次の注目すべき一節がある。

別所長治公がおっしゃるには「だんだん昨日や今日の侍の真似をする秀吉。卑しくも村上天皇の苗裔・赤松円心の末葉たる別所家に対して、誠に無礼である。毛利家を滅ぼしたあと、秀吉が播州一国を支配しようとしていることは明らかである。敵の謀を知りながら、その謀に乗るのは智将の行うことではない。そのように秀吉に返答せよ」ということである。

 この台本は後世になったものであり「卑しくも…」以下が付加されたのは、あくまでフィクションと考えてよい。村上天皇、赤松氏の流れを汲む別所氏と秀吉を対比させることにより、物語をおもしろくしようとしているのである。つまり、別所氏は名門意識があり、秀吉を見下していたということになる。