別所氏が信長に叛旗を翻した理由の一つとして、「名門・別所氏が出自すら判然としない秀吉には従えなかった」ということが挙げられる。それは、ここに示した絵解きの説明が広く流布したものと考えられる。実際に別所氏が寝返った理由は、足利義昭や毛利輝元らが熱心に引き入れたからだった。

 当初、別所方は優勢に戦いを進めたが、それは長く続かず、たちまち劣勢に追い込まれた。秀吉は三木城の周囲に付城を築くと、毛利方の兵糧ルートを完全に遮断した。こうして「三木の干殺し」と称された、生き地獄のような兵糧攻めが展開される。

 三木城付近に築城された付城は、実に堅固なものだったといわれている。二重にした塀には石を投げ入れて、重ねて柵を設けた。また、川面には簗杭(やなぐい)を打ち込んで籠を伏せて置き、橋の上には見張りを置いている。単にそれだけではない。城戸を設けた辻々には、秀吉の近習(きんじゅ)が交代で見張りをした。

 人の出入りも厳しく規制された。付城の守将が発行する通行手形がなければ、一切通過を認めないという徹底ぶりであった。夜は篝火(かがりび)を煌々と焚き、まるで昼間のようであったといわれている。もし油断する者があれば、上下を問わず処罰し、重い場合は磔という決まりが定められた。

 三木城の周囲はアリの入り込む隙間のないほどの厳重な完全封鎖がされており、当然一粒の米も入らなかった。兵糧がなければ戦う気力が喪失し、城内の兵卒の士気が上がらないのも止むを得ない。時間の進行とともに、三木城には飢餓をめぐる惨劇が見られるようになる。

 『播州御征伐之事』にも記されているとおり、城内の食糧が底を尽くと、餓死者が数千人に及んだという。はじめ兵卒は糠(ぬか)や飼葉(馬の餌)を食していたが、それが尽きると牛、馬、鶏、犬を食べるようになった。当時、あまり口にされなかった肉食類にも手が及んだのである。もはやぜいたくは言っていられなかった。

 糠や飼葉、肉で飢えを凌げなくなると、ついには人を刺し殺し、その肉を食らったと伝えている。さすがに死肉は食しにくいので、衰弱した兵を殺したと考えられる。その空腹感は、想像を絶するものがあった。「本朝(日本)では前代未聞のこと」と記録されており、城内の厳しい兵糧事情を端的に物語っている。

 天正8(1580)年1月、秀吉は三木城内の長治、吉親、友之に切腹を促し、引き換えに城兵を助命すると伝え、秀吉もこの条件を了承した。

 別所一族の切腹の現場は、実に凄惨なものであった。長治は3歳の子息を膝の上で刺し殺し、女房も自らの手で殺害した。友之も同じような手順を踏んだ。そして、長治は改めて城兵の助命嘆願を願うと、腹を掻(か)き切ったという。介錯は三宅治職が務めた。腹は十文字に引き裂かれ、内臓が露出していたと伝える。友之以下、その女房、吉親の女房らも自ら命を断った。

 秀吉の蛮行は、これだけで終わらなかった。続く鳥取城の戦いでも、激しい兵糧攻めを展開した。
石垣が構成美を見せる鳥取城跡。地形をうまく生かして築かれている(鳥取市)
石垣が構成美を見せる鳥取城跡。地形をうまく生かして築かれている(鳥取市)
 三木城の平定を終えた秀吉は、信長の命を受けて、すぐさま但馬・因幡の平定に向かった。因幡平定は以前から始まっており、天正8(1578)年5月の時点で、城主である山名豊国は降伏していた。しかし、降伏を潔(いさぎよ)しとしなかった豊国は、密かに吉川元春と通じて応援を依頼したという。この時、派遣されたのが、石見吉川家の当主で吉川経安の子、経家である。

 籠城直後、豊国はにわかに秀吉に投降し、その軍門に降った。この理由に関しては、毛利方が豊国を暗愚とみなし追放したなど、多くの説がある。そして、秀吉は降伏した豊国などを引き連れ、鳥取城攻略に乗り出した。取った作戦は兵糧攻めであったが、その準備には余念がなかった。