秀吉は鳥取城を兵糧攻めにすると決するや、鳥取城の西北に付城として丸山・雁金の二つの城を築いた。付城の構築は秀吉の十八番であり、三木城の戦いでも効果を発揮した作戦でもある。しかも築城のスピードは、群を抜く速さであった。そして、鳥取城を完全に包囲し、アリの這い出る隙間も与えなかったという。

 加えて、秀吉は米などを通常よりも高い値段で購入し、吉川氏の先手を打った。もともと鳥取城は兵糧が乏しかったといわれているが、これにより窮地に陥ったのである。また、鳥取城には多くの農民らが入城したという。それは、秀吉が城内に追い込んだといわれており、食糧の浪費を促すためであった。

 秀吉の兵糧攻めは、同年の6月下旬から付城の構築と同時並行で進められた。徐々に鳥取城の食糧が尽きていったことは、『石見吉川家文書』中の吉川経家の書状で随所に触れられている。その言葉からは、城内の食糧事情の厳しさが伝わってくるが、あまり具体的な記述ではない。

 むしろ、阿鼻叫喚(あびきょうかん)ともいえる描写を行っているのは、『信長公記』や『甫庵太閤記』といった史料である。次に、その凄惨な内容を掲出しておこう(内容的には似た部分が多いので、『信長公記』を掲出する)。

因幡国鳥取郡の一郡の男女は、ことごとく鳥取城中へ逃げ入って立て籠もった。下々の百姓以下は、長期戦の心構えがなかったので、即時に餓死してしまった。はじめは五日に一度か三日に一度鐘を衝くと、それを合図に雑兵が城柵まで出てきて、木や草の葉を取り、中には稲の根っこを上々の食糧とした。

 鳥取一郡の男女という表現は大げさであるが、それほど多数の人間が入城した表現と捉えてよいであろう。百姓たちは心構えがなかったため、すぐに飢え死にしたとあるが、実際には非戦闘員に食糧が回らなかった可能性もある。雑兵が城柵近くの葉などを食していたということは、城内の食糧が尽きていたことを示している。具体的な時期は示されていないが、籠城が始まってから、さほど経過していない頃と考えられる。
豊臣秀吉木像(大阪城天守閣蔵)
豊臣秀吉木像(大阪城天守閣蔵)
 時間の経過とともに食糧事情が悪化すると、惨劇はさらに深まった。

のちになると、これ(草の葉など)も尽き果てて、牛馬を食らっていたが、露や霜に打たれて餓死する者は際限なかった。餓鬼のように痩せ衰えた男女は、柵際へ寄ってもだえ苦しみ、「ここから助けてくれ」と叫んだ。叫喚(大声を上げて叫ぶこと)の悲しみ、哀れなる様子は、目も当てられなかった。

 この描写から明らかなように、すでに見てきた三木合戦と同じ様子であった。しかし、悲劇はこれだけに止まらなかった。ついにカニバリズム(人肉を食うこと)が行われたのである。次に、さらに激しい惨劇を確認しておこう。

(秀吉軍が)鉄砲で城内の者を打ち倒すと、虫の息になった者に人が集まり、刃物を手にして関節を切り離し、肉を切り取った。(人肉の)身の中でも、とりわけ頭は味がよいらしいとみえて、首はあっちこっちで奪い取られていた。

 食糧不足が極限に達すると、人々の理性は完全に失われた。しかし、死んだ人間の肉はまずかったようで、たとえ虫の息であっても、生きた人間が食に供されたようである。中でも「頭がうまい」というのは初耳であるが、脳みそのことであろうか。いずれにしても、惨劇がここに極まったのは、いうまでもないであろう。

 このような事態を受けて、同年10月25日、城主の吉川経家は城兵を助けることを条件に切腹したのである。人が人を食らうことを知った秀吉には、どのような気持ちが生じたのであろうか。もはや知る由もない。

 このように秀吉が残酷の限りを尽くしたのには、いくつか理由があろう。本来、卑しい出自の秀吉は、信長に認められるべく必死だった。そのためには自らの武威を示すべく、戦いに勝っても残酷な措置をして、敵対勢力を委縮させる必要があった。その点で女、子供の磔刑、苛烈なまでの兵糧攻めは、絶大な効果があったのである。

※主要参考文献
渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書y、2013年)