2018年08月26日 15:11 公開

8月25日に脳腫瘍のため81歳で死去したジョン・マケイン上院議員は、ベトナム戦争で負傷し、捕虜となり、拷問され、米国において「英雄」と呼ばれ、米政界でも特に高名で尊敬された上院議員となった(文中敬称略)。

率直な語り口の持ち主で、良識と分別、バランス感覚を重視する保守政治家として、思想性の強い共和党議員と衝突することも多く、「異端児」と呼ばれ、好んでそう自称した。また、ドナルド・トランプ米大統領を、大統領選の最中から強烈に批判し続けた。

実務的な成果主義者で、結果を出すためには党内だけでなく対立する民主党との取引や譲歩も受け入れる、交渉の達人として評価された。

2008年には幅広い支持を得て大統領選の共和党候補となったが、バラク・オバマ前大統領相手に敗れた。保守派の支持獲得のためサラ・ペイリン・アラスカ州知事(当時)を副大統領候補に選んだことで、穏健派からは批判された。

ジョン・シドニー・マケイン3世は1936年8月29日、当時は米管理下にあったパナマ運河地域のココ・ソロ海軍飛行場で生まれた。祖父も父も海軍大将まで上り詰めた、海軍一家で生まれ育った。

父親の転勤に伴い各地で少年時代を過ごした後、メリーランド州アナポリスの海軍兵学校に入学。リーダーとしての資質があると同時に、権威を見下す豪胆さが評判となった。権威を軽んじるふてぶてしさに加え、つまらないと思う科目は落第さえしなければ良いという態度だったため、1958年に卒業した際には学年最下位に近かった。

米海軍の航空術のゆりかごと呼ばれたフロリダ州ペンサコーラの海軍飛行場に配属され、2年半の訓練を経てパイロットの資格を獲得。さらには、パーティー大好き人間という評判も手にした。

「ローリング・サンダー」

極めて優秀なパイロットというわけではなかった。訓練中に海に墜落した際には、「生意気で、時に軽率。限界を試したがる」と評価された。

「ジョンはいわゆる、横紙を破りたがるタイプだった」。パイロット仲間の1人はこう話す。

地中海上の空母から攻撃機スカイレイダーを操縦した際には、スペインで電線を巻き込んでしまい、一帯の停電の原因となった。

1967年には、北ベトナム空爆作戦「ローリング・サンダー」に参加していた空母フォレストルに配属された。艦上の火事で負傷した後、空母オリスカニーに異動した。

同年10月26日、ハノイ上空飛行中に撃墜された。機体脱出時に両腕と片脚にひびが入る重傷を負い、北ベトナム軍の捕虜となった。最低限の手当てしか与えられず、拷問され尋問された。提督の息子だと北ベトナム側が気づくまで、暴行は続いた。1968年3月から2年間、独房に入れられた。

捕虜生活5年半

父親がベトナムにおける米軍司令官になると、北ベトナム側はプロパガンダの機会と捉えて、釈放を持ちかけた。しかしジョン・マケインは、自分より先に捕虜となった米兵全員を釈放しなければ、応じないとこれを固辞した。

このため北ベトナムは、激しい拷問を再開した。絶え間ない暴行に加え、赤痢にも苦しんでいたマケインは、自殺を試みたほどだった。

捕虜生活5年半を経てついに釈放されたが、度重なる暴行による後遺症が両腕などに残った。

帰国したマケインは、1965年に結婚した妻キャロルが自分の不在中に交通事故で重傷を負い、歩行が困難になっていたことを知る。

1977年に海軍の上院連絡事務所でしばらく働き、政治に関心を持つようになる。1979年に知り合った教師のシンディ・ルー・ヘンスリーと交際するようになり、キャロル夫人に離婚を求めるに至った。キャロル夫人がこれに応じ、1980年にシンディ夫人と再婚した。

熱心なギャンブラー

1981年に海軍を退役し、連邦議会選に出馬した。シンディ夫人の父親がビール販売事業を展開していたアリゾナ州フィーニックスに地盤を移し、連邦下院議員となった。

当時のロナルド・レーガン大統領の強力な支持者で、ソ連に対する強硬姿勢を応援した。中米ニカラグアの親米反政府民兵「コントラ」を支援するレーガン政策も支持した。

1984年に圧勝で下院再選を果たすと、議会内で影響力の強い外交委員会に席を獲得し、新進の議員としてそれまで以上に注目されるようになった。

1987年には、強硬保守派のバリー・ゴールドウォーター上院議員が引退したため、代わりに出馬し、アリゾナ州選出の上院議員となった。海軍士官としての経歴から、上院軍事委員会の委員になった。

熱心なギャンブラーでもあり、先住民問題委員会の委員としては、米国先住民がカジノ経営で収益を得られるようにする新法の成立に尽力した。

党指導部の方針に賛成できなければ、臆せず批判する恐れ知らずだという評判も、得るようになっていた。共和党議員でありながら、民主党のビル・クリントン大統領が指名した最高裁判事候補を、職務にふさわしい有能な人物だからと2人も支持し、騒ぎを巻き起こした。

1990年代初めには、自分に政治資金を寄付した実業家を民主党の上院議員4人と一緒になって支援し、規制当局の捜査に申し入れをしたとされ、汚職スキャンダルに巻き込まれた。問題の実業家は後に、経営手法が詐欺にあたると実刑判決を受けた。マケインは捜査の末、「規制当局に介入したのは不見識」だったものの、「不適切な行動」はなかったと判断され、軽い警告を受けるだけで済んだ。

「反主流派」

1999年9月には、共和党の大統領候補指名を目指して出馬すると発表した。

対立候補のジョージ・W・ブッシュ・テキサス州知事(当時)が、共和党の組織的な支援と資金を期待できる状態だったのに対抗して、自分はアンチ・エスタブリッシュメント(反主流派)候補だと打って出た。

厳しい選挙戦でブッシュはキリスト教保守派の支持を巧みに集約した。3月の「スーパー・チューズデイ」で大敗したマケインは、予備選から撤退するしかなかった。

その後はブッシュ大統領への支持を表明したものの、批判もためらわなかった。ブッシュ政権の減税案に共和党から反対した上院議員は2人だけだったが、マケインはその1人だった。政権の銃規制方針にも反対した。

しかし、2001年9月11日の米同時多発テロの後は、ブッシュ政権のアフガニスタンとイラク侵攻を支持した。ただし、イラク戦争が長期化するにつれて、ブッシュ大統領やドナルド・ラムズフェルド国防長官の政策への疑念をあらわにするようになった。

再び大統領選に挑戦

2007年4月には再び、大統領選に出馬すると発表した。ルディ・ジュリアーニ・ニューヨーク市長(当時)やミット・ロムニー前マサチューセッツ州知事(同)と激しく競い合った末、2008年夏に共和党候補となった。

本選で勝つには、共和党支持者の中でも特に保守的なキリスト教右派の支持が必要だという認識から、全国的にほとんど無名だったアラスカ州知事のサラ・ペイリンを副大統領候補に選んだ。

「ホッケー・ママ」を自認するペイリンの大衆的なイメージは右派には歓迎されたものの、主流派や穏健派はペイリンの知識不足や経験不足に強い懸念を抱いた。本選に向けてペイリンが相次いでテレビ・インタビューで、質問に十分に答えられない様子を見せて有権者の信頼を損ねたことに加え、世界金融恐慌の発生がマケイン陣営に大きな打撃を与えた。

オバマ陣営の圧倒的な資金力も、ブッシュ共和党政権が8年間で積み重ねた負の遺産なども、マケインを妨げた。結果的に選挙人団の票数でも一般投票の票数でもマケインは至らず、オバマがホワイトハウスの新たな主となった。

しかし、異例なことに、この大統領選の後に2人はむしろ親しくなり、オバマ大統領はしばしばマケイン上院議員の意見を求めた。それでも新大統領が景気浮揚策を提案すると、マケインは政権が提案する大規模な公的資金投入は何の役にも立たないと強く反対した。

アリゾナ州に戻ると、超保守派「ティー・パーティー」運動の候補を簡単に破り、2010年中間選挙で再選された。上院では重鎮として高い地位を占め続け、テレビ出演も精力的に重ねることで、米国でも最も有名な政治家の1人であり続けた。

共和党が2016年選挙の候補者探しを本格化すると、ドナルド・トランプの適性を強く疑問視していると公言した。部屋いっぱいのトランプ支持者を「クレイジーな連中」と呼んだこともある。

これに対してトランプ候補は2015年夏の時点で、「戦争の英雄じゃない。捕まったから戦争の英雄なんだ。自分は捕まらない人間のほうが好きだ」と発言し、マケインの経歴を中傷していた。

投票日を目前にした2016年10月に、トランプが2005年時点で女性についてわいせつな発言をしたテープが公表されると、一時は党の指名候補として支持を表明していたマケインは支持を撤回した。

「トランプ氏が女性を攻撃し、この国とこの社会における女性を侮辱した時点で、私はもはや袂(たもと)を分かつしかない」とマケインは表明した。

しかし、2017年7月にマケインが脳腫瘍を患っていると公表されると、オバマ前大統領だけでなくトランプ現大統領もただちに、気遣うコメントを発表した。

とはいえ同月、血栓手術の傷跡を左目の上につけた状態で上院に戻ったマケインは、トランプ政権が推進するオバマケア(オバマ政権による医療保険改革)撤廃法案について、親指を下ろす劇的なジェスチャーで、反対票を投じた。

これに対してトランプ大統領は、マケイン議員を初め、法案に反対した議員たちは「米国民を裏切った」とツイートした。

マケインは党利党略に構わず、政治家として自分の思う道を歩き続けた。米政界のトップに立つことがなかったのは、それが理由だったかもしれない。

しかし、原理原則を重視する信念の人として評価を確立した。歩み寄りによる問題解決が可能ならば、政敵との話し合いも歓迎する信念の人――。ジョン・マケインはそういう人物だと見られていた。

(英語記事 Obituary: John McCain