春日良一(スポーツコンサルタント)

 オリンピック競技大会は創設以来成長し続けてきた。1896年に開催された第1回のアテネ五輪、競技種目数は9競技42種目に過ぎなかった。それから120年後の第31回リオデジャネイロ五輪では、28競技306種目に増えている。

 この「巨大化」の流れについて、主催者である国際オリンピック委員会(IOC)も危機を感じていた。1992年のバルセロナ五輪の後、時のIOC会長、アントニオ・サマランチは「今後の大会では選手上限を1万人とする」と宣言した。しかし、現実にはその後も1万人に収まることはなく、リオでは1万1237人に膨れ上がった。

 そして、2013年9月にIOC会長に就任したトマス・バッハは、打開策として中長期指針「アジェンダ2020」を発表した。これは巨大化による大会開催経費の増大問題や、それに伴う開催立候補都市の減少を意識したものであり、招致段階からの経費削減を図る姿勢も示されている。そして、夏季五輪については、選手1万500人、役員5千人、そして種目数310を上限とする指針を定めた。

 しかし、2年後の東京五輪では、上限を超える33競技339種目が決定している。参加選手も、上限の1万500人を超えることも間違いないだろう。

 理想と現実は違うと言ってしまえばそれまでだが、なぜこのような現象が起こるのか。実は、この現象に、現在IOCで検討されているeスポーツの五輪競技化の鍵が隠されている。

国際オリンピック委員会の第7代会長、
アントニオ・サマランチ=2000年9月撮影
 その一つに、1984年のロサンゼルス五輪がある。76年のモントリオール五輪は、閉幕後、市民がその負債を何年も背負わなければならない事態に追い込まれ、それ以降の大会運営の見通しは決して楽観できるものではなかった。だが、ロサンゼルス五輪の組織委員会は、米政府や都市の援助を一切受けずに、五輪を黒字に導くという離れ業をやってみせた。

 黒字の立役者として、組織委会長で実業家のピーター・ユベロスの功績がたたえられているが、実は、その裏にサマランチの手腕があった。それまで商業的利用を一切禁じてきたオリンピックシンボル、あの青・黄・黒・緑・赤の五輪マークを商業利用することに踏み切ったのである。