櫻井よしこ手記 「ニュース番組までメダカの学校になってどうする」

『櫻井よしこ』 2018/09/03

読了まで13分

櫻井よしこ(ジャーナリスト)

 ニュース報道は誰が仕切るべきか。そんなテーマでiRONNAに原稿を依頼された。どこから始めようか。

 日本のニュース報道の主な現場は二つある。報道局の手になるニュース番組がニュース報道の唯一の主役だった時代は疾(と)うの昔に過ぎ去り、主たる伝え手は社会情報系が作るワイドショーになってしまった感がある。ニュースに割く時間の多寡を考えればまさにワイドショーがニュース報道の主役と言ってよい。

 ワイドショーはいつの頃か、ニュースを扱えば視聴率をとれることを学んだ。これでもかこれでもかと、朝から晩までニュースを取り込み、報道の現場に乱入し続けて今日に至る。その結果、報道番組にも変化が生じてきた。従来の固いイメージのニュース番組がさまざまな意味でやわらかくなり始めた。ワイドショーがニュース番組に近づき、ニュース番組がワイドショーに近づいたのである。こんな状況下でニュース報道は誰が仕切るべきかを語るのは、今や似た者同士となった二つを語ることである。

 そこでまず各局のニュース番組だ。局ごとに顕著な違いがある。日本テレビの場合、ニュース番組の主役はタレントである。他方、NHKをはじめその他の局のニュース番組の主役はアナウンサーである。

 もっとも、TBSの『NEWS23』のように朝日新聞の記者を中心に据えるケースもあるが、それでも日本のニュース番組は、➀タレント中心、➁アナウンサー中心に大別できる。➀は人気者の登用で視聴率を狙っているのであろう。➁は自局のアナウンサーなら、タレント並みの高額出演料が不要である。従ってコスト抑制が大きな要因だろう。

 どちらも欧米諸国ではおよそ見られない異端のニュース番組である。➀のタレントがニュース番組の担い手になる例は、少なくとも欧米先進諸国では、見当たらない。➁もない。そもそも読みに徹するアナウンサーという職種自体がない。日本のニュース番組は本当に異端の存在なのだ。

 久しぶりに早朝からテレビをつけた。ある局のワイドショーで、若い女性4人が横一列に並んで立って、各自が担当するニュースを紹介していた。4人は、女性というより可憐さが先に立つ少女のいでたちである。くるんとした目と爽やかな色彩の洋服が愛らしい。可愛いことはいいことだけれど、それでもどうしてこんなに可愛らしくなければいけないのだろう。そしてなぜ4人も必要なんだろう。

※この画像はイメージです(GettyImages)
 いや待てよ、こんなに可憐な少女っぽい人たちに、1人だけでニュースを伝える力はあるのだろうか。集団で担ってようやく責任を果たせているのではないか。4人のそろい踏みにはもしかしてそんな理由があるのかしら。複数でにぎやかにする方が視聴率にも貢献するかもしれない。はたまた、何年かたって4人の中の1人でも2人でも成長してモノになるかもしれない。局側はそんなふうに考えているのかもしれない。いずれにしてもそんな人材の使い方をテレビ局がしているのは明らかだ。
ニュース番組は競争と闘いの現場だ

 彼女たちに話を戻すと、自分に割り振られたニュース項目のリード部分を読んでいたが、ニュースの中身について質問でもされたら、おそらく、ほとんど答えられないであろう儚さを漂わせていた。どう見ても記者修業中の新人でもなさそうだ。物書きを目指しているわけでもなさそうだ。4人ともプロダクションに所属するタレントであろうか。

 早朝だけではない。昼間、夕方、さらに夜のワイドショーも程度の差こそあれ同質の問題を抱えている。伝える側の人数が多い。出演者のほとんどが記者ではない。学者でもない。多くがタレントである。

 といっても、この頃は売り出し中の学者がテレビ番組に出て知名度を上げるためにあえてプロダクションに所属する事例がある。従って、吉本興業をはじめとするプロダクション事務所に所属するからといって、それだけで判断しては間違うかもしれない。

 ワイドショーの出演者は各自、専門芸を持っている人たちではあろうが、ニュースのコメントに関しては的外れだったり、月並みすぎたりで、評価に値するコメントは非常に少ない。この件については私の尊敬する立派な学者である加地伸行さんが書かれた『マスコミ偽善者列伝 建前を言いつのる人々』(飛鳥新社)がある。ぜひお読みになるようお勧めして、次に報道番組について語ってみよう。

 日本の報道番組と欧米諸国のそれを比べると明確な相違がある。先述したように海外の報道番組では、例えばBBC、ABC、CNN、France2もFOXニュースも、歌手であれ役者であれタレントをキャスターに登用している事例を、私は寡聞にして知らない。

 海外では報道番組の伝え手は激しい競争の中から勝ち上がってくるジャーナリストたちが圧倒的に多い。それぞれの専門分野を持ち、特派員としての経験なども積み、報道の現場で鍛えられ、認められた者だけがニュースキャスターの地位を手にする。

 そこにたどり着いたからといって安心はできない。視聴者の目がある。誤報や歪曲(わいきょく)はニュースキャスター個人としても局としても許されない。信頼を失えば降板ともなる。その種の職業的な実績は、良きにつけ悪しきにつけ、長くメディア論の中で取り上げられる。

 つまり、ニュースの伝え手に問われるのは、何よりも報道のプロとしての質である。ニュース番組はプロのニュースマン、ジャーナリストたちによる、あらゆる意味での競争と闘いの現場なのである。だから海外のニュース番組のキャスターたちは往々にしてそれ程若くはない。

 とびきりの美男でも美女でもない。生まれつき美男美女であったとしても、その美しさを意識的に際立たせることはない。かわい子ぶりは絶対にしない。頼りなさ、儚さなどはむしろ退けられる。彼らは視聴者に信頼される成熟した大人として、まっとう果敢に取材し、報じようとする。番組の担い手として、強く大きな太い柱であろうとする。
米国を代表するアンカーウーマンのケイティ・クーリック
 日本はどうか。前述したように、まず、キャリアを積んだ記者が中心になっている番組が少ない。人気のあるタレントが仕切っている番組と局アナと呼ばれるアナウンサーが仕切るものとに二分される。報道についておよそ素人の彼らは、一体どのようにして、キャスターやコメンテーターの役割を担っているのだろうか。

 通常、ニュースのリードやコメントは番組のプロデューサーや記者が書いてくれる。それらはプロンプターで読める。読みの専門家である局アナにとっては得意分野であり、上手に読むことで基本的にニュースキャスターの形は整えられる。そういう仕組みの中で初めて局アナやタレントがキャスターの役割を果たし得ていると言ってよいだろう。

 ここでずっと昔の私の体験を語ってもよいだろうか。古い話だが、私はかつてニュース番組のキャスターだった。各ニュース項目のリードは報道局の記者たちが書いた。コメントは記者やプロデューサーが知恵を絞ってまとめたものが、私の手元にきた。

 形の上では今と同じである。しかし当時、私はリードやコメントについて、それぞれの担当記者やプロデューサーと、時には嫌になるほど議論をしたり修正を加えたりした。ひとつひとつのニュースの取材に、私自身が直接関わることがないとしても、私はジャーナリストとしての自分の在り方を強く意識していた。周りもそのことを意識し、そして受け入れてくれていた。報道局の兵(つわもの)と私の間には、取材する者としての対等の感覚があったと思う。そのようなプロデューサー及び報道局の記者全員に対する敬意と、自分に対する信頼があって初めて、私の16年間のニュースキャスターとしての仕事が完うされたと思う。

 報道にはどうしても、その記者、その番組の価値観が反映される。基本的にどのニュース番組も取捨選択の段階ですでに価値観が反映されているのである。それが昂(こう)じると偏りにつながっていきかねない。

 アメリカのCNNは明らかに左に偏っている。だが面白いことに、CNNとは逆の右に偏りがちなFOXニュースも高い視聴率をとっている。左の人はCNNを見て満足し、右の人はFOXで盛り上がる。対極にあるテレビ局同士が互いに逆方向に傾斜することで社会全体の情報供給のバランスがとれていると見ることが可能だ。 

 対照的なのが日本である。わが国のテレビ局はメダカの学校である。ニュースの報じ方がおよそ一色に染まる。同じ方向にドーッと走る。方向は左系統への偏り一本道である。往々にしてNHKがその先頭を走り、TBS、テレビ朝日、NTV、そしてフジまで含めて同一方向に雪崩を打つ。実に日本の悪しき実態である。アメリカのように対極的な価値観や方針を持つ複数のテレビ局は日本には存在しない。

『きょうの出来事』キャスター勇退後の櫻井よしこさん=1996年4月
 再び私自身の話で申し訳ないが、ニュースに関して私にも明確な価値観がある。だが現役キャスターだったとき、心掛けていたことが二つあった。報道の基本として大切にしていたことである。

 まず事象の一側面だけでなく、全体像を伝えることの重要さだ。全体像を描いて見せることなく部分だけに焦点を当てれば、間違ったメッセージを送ることになりかねない。この1~2年のニュース番組やワイドショーでいえば、その典型的事例が「モリカケ」問題の報道だったと思う。どのテレビ局のどのニュース番組でもワイドショーでも、モリカケ問題の全体像は全くといってよい程伝えられなかったと断じてよいと思う。

 事象の一部のみの報道は、結果として歪曲報道になる。社会にも、国民にも、全くためにならない。こんな異常な偏った報道はない。そこで私は自分のネット番組『言論テレビ』で事柄の全体像を大いに発信した。

 二つ目の大事な点は、立場の弱い側に心を添わせることだ。それは「弱者」を絶対善と見做(みな)したり、過度に大事にすることではない。彼らの抱える問題を、自分のことのように心に感じ、解決を願い、そのために必要なさまざまな情報を伝えることである。表面的な正邪の観念や建前論から離れて、考えを深める最大限の取材と努力が大事なのだ。

 もうひとつ、思い出した。日本で女性がニュース番組の柱になったその最初のケースが私だった。私は自分の責務を番組全体に責任を持つことだととらえていた。むろん、それは現実とは異なるのだが。例えば、対外的に番組に責任を持つのはプロデューサーであり報道局、テレビ局そのものである。それは確かにそうなのだが、それでも現場ではすべてが最終的に私にかかってくるのも事実である。

 例えば、飛行機がハイジャックされるように、スタジオがハイジャックされた場合はどうなるのか。番組の責任者であるプロデューサーはスタジオの中にはいない。スタジオ全体に目を光らせるサブコントロールルームにいる。従って、スタジオに入ったが最後、全責任を持つのはキャスターの自分であると、私は認識していた。私のジュニアパートナー、お天気情報の担当者、カメラマン、ディレクター、こうした人たち全員を守らなければならないと、いつも私は考えていた。

 危機に直面したときは、犯人たちをよく観察して冷静に対処する。決して興奮しない、させない。落ち着いた声と態度で対応する。思想的な話にもよく耳を傾ける。武器を持っている場合、武器に反応して恐れの表情を見せてはならない。反抗はしない。相手の要求には真面目に応える。その上でスタジオ内のスタッフをできるだけ早く、外に出してもらう。
※この画像はイメージです(GettyImages)
 究極の危機対応としてこんなことを考えていたのは、大げさかもしれない。滑稽に思われるかもしれない。けれども、ニュース番組の担い手として、オンエア中に危機が生じたときには、毅然(きぜん)として筋の通った対処をするのは最低限の責任だ。そのことを、自分の中で確認して、私はスタジオ入りしていた。幸いにも16年間のキャリアの中でそのような経験はなかったが、危機はいつでもあり得ることを忘れていたり、考えなかったりするようでは失格だと、私は認識していた。

 そこまで力を入れて臨んだのが『きょうの出来事』という報道番組だった。だからなおさら感じるのである。ワイドショーのニュース報道は本当に的外れで無責任で見ていられない、と。アナウンサーの報じるニュース番組はとても異質だ、と。

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