とにもかくにも、上京の焼き討ちを強行したことによって伝承の呪縛から逃れた信長は、いよいよ本領を発揮し始める。

 4月15日、百済寺炎上。聖徳太子建立という近江きっての古刹(こさつ)は延暦寺と同じく天台宗に属するが、信長に敵対し続ける六角義治(六角義賢の子)が近くの鯰江(なまずえ)城に籠城していた。城代の森某の子がこの寺に出家していて、城内に兵糧を送り届けるなどしたために、信長から六角氏の同類と断じられ、焼き討ちをかけられたのだ(『百済寺古記』)。第六天魔王の面目躍如である。

 続いて7月18日には、再び反信長の兵を挙げた将軍・足利義昭も信長によって京を追放される。かつて義昭から「御父」と頼られた信長は、逆に「ほしいままの悪逆」と罵倒されたが、そんなことは彼にとってもはや大した意味はない。

 7月28日、元号が元亀から天正へ改められる。義昭追放からわずか3日後に信長が改元を奏請したのだ。これについては朝廷も、「俄(にわか)」な申し入れだったと驚いている(『御湯殿上日記』)。信長は前年に「元亀の年号不吉」と義昭にも改元を求めており、早く新しい元号にしたかったらしい。これが信長と義昭が決裂する原因の一つともなったのだが、それはどうしてだったのか。

 もともと「元亀」への改元は義昭が推進した。「与風(ふと=急いで)」改元を行うようにと朝廷に申し入れた結果、永禄から改められたものだ(同)。

 では、この元号がどういう意味のものだったのかを考えてみよう。

 「元亀」には、そのものズバリ「亀」の文字が入っている。古代中国では、亀は龍の子と考えられていたし、亀をかたどった霊獣・玄武は蛇を体に巻き付けた水の神とされていた。
奈良・キトラ古墳墓道調査終了
奈良・キトラ古墳にある玄武の壁画(代表撮影)
 水神であり、龍や蛇とも関わりの深い亀。信長なら喜びそうなものなのだが、彼はなぜこのめでたい元号を忌避したのだろう?

 皮肉にも、元亀の年間は信長にとって本願寺と一向一揆の蜂起、浅井・朝倉の敵対、武田信玄の侵攻と、立て続けに逆風が吹き荒れた最悪の時代だった。厄除けにうるさい信長としては、気分一新ケチのついた元号を改めることによって、ツキを変えたいという思いもあったのだろう。

 そしてさらに大きな鍵は、この元号の出典とされる文章にありそうだ。

 『詩経』と『文選』という古代中国の文集から採られた「元亀」。『詩経』からは「毛詩」の「元亀象歯犬賂南金」という文言、『文選』からは「元亀水処、潜龍蟠於沮沢、応鳴鼓而興雨」という文言が、それぞれ用いられたという。

 問題になるのは、後者の「元亀水処~」だ。「亀は水場に君臨し、龍は湿地帯に潜み、呼応して雨を呼ぶ」とでも読み下せばよいか。

 一見して思うのは、亀が水場の支配者であるのに対し、龍は単に沼沢に潜んでいるだけの従の存在にしか位置づけられていないという点なのだが、どうだろう。亀が主、龍が従。信長はこれに我慢できなかったのかもしれない。そういえば、玄武も亀が主、蛇はそれに巻き付くだけの存在ともいえる。