大蛇・龍を信奉する信長としては、義昭=亀が信長=龍を従える構図を否定したかったのではないか。亀が龍の子というのも、義昭から「御父」と呼ばれた信長にとっては、まさに義昭と自分の関係ではないかと「義昭の面当てぶり」を不愉快に思ったに違いない。逆に、義昭はその意味を知っていたからこそ「元亀」への改元を積極的に行ったとも考えられる。

 当時は「言霊(ことだま)」の力が普通に信じられていた時代であった。義昭を追放した今、龍=信長は亀の呪縛からも逃れた。改元はその事実を確認する重要なイベントでもあったのだ。

 8月20日、朝倉義景滅亡、9月1日、浅井長政滅亡。長政は自害の直前の8月29日に家臣の片桐直貞に対して、

  「このたびは思いがけない成り行きで(小谷城のうち)本丸だけが残るのみとなったが、多くが脱出するなかで籠城し忠節を抽(ぬき)んでるその方には感謝している」

という内容の感状を発給するのだが、そこには「元亀四(年)」の文字が書き入れられていた。長政は改元を無視し、「信長が義昭に従う」元亀の元号を最期まで用い続けたのだ。それによって信長こそが逆賊であると主張したのだろう。

 11月16日には河内若江城の三好義継が佐久間信盛以下に攻められ自害。京を追放された義昭を保護したことが責められての不幸な最期だった。これで信長にとって畿内の敵対勢力は本願寺を残すのみとなる。

 明けて天正2(1574)年。前年12月に岐阜城に凱旋(がいせん)し、久々にゆったりとした時を過ごしていた信長は、そのまま正月を迎える。

 京や周辺諸国から家臣たちが年賀に伺候(しこう)し、式三献(しきさんごん。礼法にのっとった盃事で、一の膳・二の膳・三の膳のそれぞれで大中小の盃を酌み交わす。現代の三三九度につながっている)の宴席にお呼ばれした後、外様衆は退席した。残ったのは馬廻衆(側近衆、親衛隊)のみ。
宴席が行われたと思われる岐阜城の信長居館跡
宴席が行われたと思われる岐阜城の信長居館跡
 ここで『信長公記』はこう記している。

  「古今承り及ばざる珍奇の御肴出で候て、又御酒あり」

   昔も今も聞いたことがないような珍しい酒の肴(さかな)が出され、また酒が振る舞われた、というのだ。

 一体どんな肴が供されたのだろう?  それは、現代のわれわれから見れば世にも恐ろしい代物だった。

「去年北国(ほっこく)にて討とらせられ候、
一、朝倉左京大夫義景首(こうべ)
一、浅井下野    首
一、浅井備前    首
  已上、三ツ薄濃(はくだみ)にして公卿に居ゑ(すえ)置き」

   朝倉義景、浅井久政、浅井長政の3人の首が、漆で塗り固めた上から金泥を薄く施された状態で食台に載せられ、披露されたのである。

 『甫庵信長記』では黒漆の箱に入って出され、柴田勝家が酒を飲んでいるときにふたが開けられたと記されている。本当なら、勝家は口に含んだ酒を吹き出したかと想像するのがわれわれ現代人の感覚なのだが、臨席の人々はてんでに歌い踊り、宴は大いに盛り上がったらしい。