河西秀哉(神戸女学院大文学部准教授)

 戦後、女性皇族が結婚した例は、昭和天皇の娘が3人、明仁天皇の娘が1人、三笠宮崇仁親王の娘が2人、高円宮憲仁親王の娘が1人で、全部で7人である。秋篠宮文仁親王の長女である眞子内親王と婚約内定中の小室圭さんと、彼らとはどのような違いがあるのだろうか。

 まず、天皇の娘たちの例から見てみたい。彼女ら、皇后や皇太后、皇太子とその家族などは「内廷皇族」と呼ばれ、独立した宮家を持たない皇族である。天皇との血の近さが特徴であり、それだけに報道もされやすく、その行動や思考に対する世間からのインパクトも大きい。

 昭和天皇には5人の娘たちがおり、そのうち長女の照宮成子内親王は、戦前の1943年に東久邇宮盛厚王と結婚していた(次女の久宮祐子内親王は夭折)。この東久邇成子のように、近代天皇制において、天皇の娘は皇族と結婚する慣例にあった。

 そのため、戦後、1946年の時点で皇族女性の結婚適齢期である16歳になっていた三女の孝宮和子内親王は、やはり皇族の賀陽宮(かやのみや)邦寿(くになが)王との結婚が内定していた。しかし、香淳皇后が孝宮の早期結婚を望まなかったこと、賀陽宮家の家風に対する問題が生じたことなどを理由として、結婚延期が検討され始める。そして、木下道雄侍従次長などが、孝宮には長期の修養期間が必要であることを主張し、賀陽宮との結婚は結局立ち消えとなった。

 この時、四女の順宮(よりのみや)厚子内親王と五女の清宮(すがのみや)貴子内親王について、結婚相手の範囲を皇族に限定しないように木下氏が進言し、昭和天皇もそれに賛成していた。天皇の地位が象徴へと変化する中で、自身の娘たちの結婚もそれに合わせて従来のしきたりから変化させるべきだと天皇も思考していたのである。以後、彼女たちが結婚する年齢も高くなっていく。

 そして1947年、11宮家の皇籍離脱や華族制度の廃止に伴って、昭和天皇の娘たちを誰と結婚させるのかという問題がより現実問題として浮上した。日本国憲法が施行されたことを契機にして、「皇族、元皇族、旧華族でもない一市民が花婿に選ばれる場合」が想定されたためである。

 1949年、読売新聞で孝宮の結婚相手として東本願寺法主の長男である大谷光紹氏に内定したとの報道がなされた。大谷氏の母親は久邇宮邦彦王の三女で香淳皇后の妹であり、大谷氏と孝宮とはいとこであった。つまり、戦前の結婚相手のように皇族ではないが、家柄の良さがうかがえる。
孝宮和子内親王と婚約が内定した鷹司平通氏。左は父の信輔氏
孝宮和子内親王と婚約が内定した鷹司平通氏。左は父の信輔氏
 しかし、血の近さなどが問題となり、結局は大谷氏ではなく、藤原氏の流れをくむ五摂家の一つ、鷹司家の鷹司平通氏が孝宮の婚約者として内定した。鷹司氏は元侯爵とはいえ、交通公社に勤めるサラリーマンであったため、天皇の娘が民間に嫁ぎ、生活することへの人々の期待は高まった。とはいえ、やはり元華族としての家柄があったことは否めない。