渡邊大門(歴史学者)

 天正10(1582)年6月の織田信長の横死後、豊臣秀吉は着実に自らの基盤を固めた。関白になったのは、天正13年のことである。ポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの『日本史』は、秀吉のむき出しの権力欲について、次のように表現している。

こうして(秀吉は)地歩を固め企図したことが成就したと見るやいなや、彼はがぜん過去の仮面を捨て、爾後は信長のことはなんら構わぬのみか、為し得ること万事において(信長)を凌(しの)ぎ、彼より秀でた人物になろうと不断の努力をした。

 政治的な権力を保持した秀吉は、自己の権威を高めようとした。その一つが、天正11年から開始された、大坂城の築城である。大坂城築城の意図や工事の様子については、『十六・七世紀イエズス会日本年報』に次のように記されている。

(秀吉は)己が地位をさらに高め、名を不滅なものとし、格においてもその他何事につけても信長に勝ろうと諸国を治め、領主としての権勢を振うに意を決し、その傲慢さをいっそう誇示するため、堺から三里の、都への途上にある大坂と称する所に新しい宮殿と城、ならびに都市を建て、建築の規模と壮麗さにおいて信長が安土山に築いたものを大いに凌ぐものにしようとした。

 秀吉は信長に並々ならぬ対抗意識を燃やしており、安土城を凌ぐような城郭を欲していた。フロイスの『日本史』でも、ほぼ同様の記述がなされている。

 『十六・七世紀イエズス会日本年報』では続けて、大坂城築城の意図を秀吉の意図を「己の名と記憶を残す」ところにあったと指摘する。信長亡き後、秀吉は畏敬(いけい)されるとともに、一度決めたことは成し遂げる人物であると評されていた。大坂城の工事では何万もの人夫が動員されたが、それを拒否することは死を意味したとまで記されている。

 大坂城の豪華さに訪問者は驚嘆し、言葉が出ないほどであった。『十六・七世紀イエズス会日本年報』には、城郭が大小の鉄の扉を備えていること、多くの財宝を蓄え、武器・弾薬や食糧の倉庫を備え付けていること、などが記されている。

 さらに、城には美しい庭園や茶室が設けられ、室内は絵画で彩られていたという。一言で言うならば、贅(ぜい)が尽くされたということになろう。

 フロイスの『日本史』によると、大坂城が豪華絢爛(けんらん)だったことについては、秀吉が高い出自でないものの、信長の後継者になったことで天下を掌握したと指摘したうえで、秀吉が「皆の者の心を自分に向けるため、あらゆる方法で自分を権威付けて飾る」と述べている。信長がかつて豪華壮麗な安土城を作ったように、秀吉もそれをまねて、かつ超えようと努力したのである。
現在の大阪城=大阪市(産経新聞社ヘリから)
現在の大阪城=大阪市(産経新聞社ヘリから)
 大坂城と巨万の富を得た秀吉にとって、次なる必須アイテムは女性であった。秀吉の女好きという一面は、よく語られるところであり、大坂城には女性を囲う施設が必要だった。

 江戸時代には「大奥」なるものがあった。実は、秀吉も大奥と類似した「御奥」(おおく)なるものを大坂城に持っていた。室町将軍や戦国大名も御奥を持っていたと考えられるが、その史料は乏しい。例外的に大坂城の御奥だけが、史料的に豊富なのである。

 大坂城の御奥に関する史料としては、天正14(1586)年4月6日付の豊後のキリシタン大名、大友宗麟の書状がある(『大友家文書録』)。宗麟は薩摩島津氏が豊後へ侵入したため劣勢に陥り、秀吉に助力を乞うため大坂城へやって来ていた。