七田忠昭(佐賀県立佐賀城本丸歴史館長)

 邪馬台国(やまたいこく)の所在地が盛んに論議されるのは、言うまでもなく『三国志』魏書東夷(とうい)伝の中の「倭人伝(わじんでん)」に「…南至邪馬台国、女王之所都(…南には邪馬台国があり、そこは女王が都をおいているところ)」と記されているからだ。つまり、邪馬台国は倭国の都の所在地であり、倭国王卑弥呼の宮殿が置かれた国だからである。

 その議論は江戸時代から本格化する。邪馬台国への行程記事と、記紀など日本の古記録に記された人物や地名からの推察が主流を占めた。本格的な議論は江戸時代の儒学者、新井白石や国学者の本居宣長、明治時代末期の東京帝大教授の白鳥庫吉(くらきち)と京都帝大教授の内藤湖南による論争以降、九州地方と近畿地方が二大候補地として定着した感があった。

 考古学からのアプローチも大正末期に始まる。東京帝室博物館の高橋健自は、邪馬台国は「当時の政治・文化の中心であり、中国文化の影響が大きかった場所」に違いないと考え、中国漢・三国時代の銅鏡やその模造品が畿内で多く出土することなどから、邪馬台国は畿内にあったと主張した。

 京大教授の小林行雄は、近畿地方を中心に古墳から出土する三角縁神獣鏡に代表される同笵鏡(どうはんきょう、同鋳型で鋳出された鏡)とその地方への分布関係などから近畿・大和説を唱え、三角縁神獣鏡を魏皇帝から卑弥呼やその宗女台与(とよ、壱与(いよ)とも)に下賜された「銅鏡百枚」とみた。

 しかし、江戸時代以来、現在に至るまで、300年弱の年月をかけての議論は実らず、近畿(大和奈良)説と九州(九州北部有明海沿岸)説を筆頭に、混迷を極めている。文献の解釈や考古学的成果に決定打が現れないからであった。そのような中、1986年から始まった佐賀県吉野ケ里遺跡の発掘調査は、邪馬台国所在地の議論に多くの有意義な情報を提供することになった。

 弥生時代の終わりころ、倭国の都があったとされる邪馬台国の位置については、後の大和王権の成り立ちや、日本の古代国家成立と関連して重要な意味を持っている。邪馬台国の位置を確定することは、歴史学・考古学の重要な課題である。

 邪馬台国問題は、大和王権の成立など古墳時代以降の政治情勢、ひいては古代国家成立と深く関わる問題として重要である。奈良・大和地方で生まれた大和王権が広く列島に波及するという後の時代像に影響されることなく、まず倭人伝の記事と考古学のこれまでの成果を比較検討することから始めなければならない。

 倭国は、倭人伝が伝えるように、魏と正式な外交を保ち、相互に往来もしていた。つまり、倭人伝の記述と、発掘によって明らかにされた同時期の考古学や関連諸科学の研究成果とを対比し、中国王朝との外交の成果に視点を置いて、邪馬台国の中心集落の様相について考えなければならない。邪馬台国や卑弥呼の居所のありようを知る記述が倭人伝の中にいくつか存在するが、それらは考古学でしか解釈できないからである。

 ここでは、倭人伝の記述から想起される、邪馬台国と呼ばれる集落群やその中心集落の構造、中心集落の中に存在した卑弥呼の宮殿の構造を、考古学の発掘成果と照合してみると、おのずと九州北部地方だと言わざるを得なくなる。

邪馬台国中枢の姿
 まず、邪馬台国の所在地や様相を考える上で、参考となるべき倭人伝の記事と、考古学の発掘成果を比較してみよう。

「倭国乱れ相攻伐すること暦年、すなわち共に一女子を立てて王とした。名を卑弥呼という」

 彼女が共立された地域、つまり、倭国の領域内は戦争状態であったとみてよい。弥生時代中期以降、終末期まで大型化した銅矛などの青銅製武器形祭器による祭祀(さいし)が行われていた地域、つまり、九州北部こそが、戦乱など緊張状態が長く続いた地域と考えるべきである。