「南、邪馬台国に至り、女王の都する所にして…。官に伊支馬(いきま)有り、次を弥馬升(みましょう)と曰い、次を弥馬獲支(みまかくき)と曰い、次を奴佳鞮(なかてい)と曰う」

 この記事からは、倭王卑弥呼の都が邪馬台国に置かれたが、邪馬台国にはその長官伊支馬や弥馬升以下の次官たちも存在していたことを示している。すなわち、倭国の都が置かれた邪馬台国には、卑弥呼が居住し祭事の場であり、極めて閉鎖的な倭国の宮殿空間と、伊支馬など邪馬台国の長官や次官が居住し、政事を行う邪馬台国の宮殿空間の二つの特別区画が近接して存在していたと考えられるのである。奈良時代の大和国の中に平城宮と大和国の国庁とが共存することと同様である。

「景初2年(3年=239年の誤りとされる)の6月、倭の女王が大夫難升米(なしめ)等を派遣し帯方郡にまいり、魏皇帝少帝に朝貢したいと申し出てきた。帯方郡(たいほうぐん)太守劉夏は、文官と武官をつけて魏の都である洛陽に送った」

 上記をはじめとする外交記録からうかがえるのは、これらの外交を通じて、倭国の要人たちが帯方郡や中国本土の都城や城郭、市井のたたずまいを観察・見聞し、祭祀(さいし)儀礼や迎賓儀礼など中国の世界観を経験したはずであろうことだ。また、その成果を東アジアの最強国中国との「外交の証し」として、倭国の都や拠点集落の中国化に努めたと考えるべきである。

 有明海北岸地域では、中国城郭の城壁や入り口に付属する突出部(馬面・角楼)のように、環壕を外側へ突出させた部分をもつ環壕集落跡が集中しているが、他の地域では見られない。佐賀平野(吉野ケ里遺跡など11遺跡16環壕)、久留米市、八女市、日田市に、中国の城郭構造が反映されたと考えられる環壕集落が分布している。ただし、突出部の内側に物見櫓を設けたのは吉野ケ里遺跡のみである。

 これらの環壕突出部を設けた集落が分布する地域が、文化的なまとまりが認められるが、政治的なまとまりと考えることも可能ではないかと考えている。これら集落の中で、すべての突出部に物見櫓を伴ったのは吉野ケ里遺跡だけであり、集落間の階層性が認められる。

「その国もとまた男子を以って王となす、とどまること7~80年、倭国乱れ相攻伐すること暦年」

 卑弥呼が共立される直前までの間は、歴代男王が存在していたことが記されている。吉野ケ里遺跡周辺(吉野ケ里のクニ)には、中期前半~後期後半の男王を埋葬した墳墓が多数存在していたことが明らかになっている。
吉野ヶ里遺跡の発掘が進み、高床倉庫跡や竪穴住居跡など、弥生時代の重要な遺物が出土した=1989月3月撮影
吉野ヶ里遺跡の発掘が進み、高床倉庫跡や竪穴住居跡など、弥生時代の重要な遺物が出土した=1989月3月撮影
 中期中ごろまでの首長たちは大規模な吉野ケ里遺跡の墳丘墓に順次葬られたが、中期後半から後期後半にかけての首長たちは、中国製銅鏡(漢鏡)を添えて、吉野ケ里町・上峰町の二塚山遺跡から、吉野ケ里町の三津永田遺跡、二塚山遺跡、吉野ケ里町横田(松原)遺跡や東脊振村松葉遺跡、二塚山遺跡や三津永田遺跡・上峰町坊所一本谷遺跡へと順次埋葬される。首長墳墓が各所の墓地間を移動し続けるのである。

 大きな漢鏡や鉄製素環頭大刀(そかんとうたち)は中国国家の権威を帯びた下賜品であり、外交の賜物(たまもの)であった。吉野ケ里遺跡一帯での出土状況は、当地が長期間にわたり、たゆまなく対中国外交に深く関わっていたことを示すものである。