桂川光和(日本古代史研究家)

 かけがえのない歴史遺構がその重要性に気付かれず消滅した。奈良県を南北に縦貫する自動車道が建設されている。京奈和自動車道である。この建設工事に伴う事前調査で、奈良県御所(ごせ)市室(むろ)の地から特異な建物遺構が出土した。しかし、その重要性を認識できないまま、その遺構は自動車道のインターチェンジの下に消え去ったのだ。

 事前調査を担当した奈良県立橿原考古学研究所(橿原市)は、この遺構の重要性をまったく認識できていない。大和朝廷が営んだ祭祀(さいし)遺跡などと結論付けている。だが、このインターチェンジが造られた御所市室の地は、六代孝安天皇室秋津嶋宮(むろのあきつしまのみや)があったとされる場所だ。そこから堅固な塀に囲まれる高床式掘立建物群が出土し、これまでに類を見ない大規模な遺構、秋津嶋宮の一部が出土したのだ。
発掘調査が行われた秋津嶋宮跡=奈良県御所市
発掘調査が行われた秋津遺跡=奈良県御所市
 にもかかわらず、残念なことに、今日の研究者の多くは『日本書紀』の古い時代の記述は歴史的事実ではないとする。したがって六代孝安天皇など実在しないとする。そもそも、出土した遺構が、すべてが保存できるわけではない。単に古い時代の天皇の宮というだけなら、詳細な記録を残し、道路下に消滅したとしてもやむを得ない。

 だが、ここは秋津嶋宮であり、それは卑弥呼の王宮なのだ。その重要性は日本という国の成り立ちを明らかにするうえで、かけがえのない重要な歴史遺構なのである。もはや自動車道の下に消えた部分は仕方ないが、卑弥呼の王宮は「奴婢千人が侍る」王宮である。遺構の広がりは、発掘調査された範囲よりさらに広がると予想され、早急に遺構の範囲を確定する調査と、保存のための対策を立てるべきである。

 まず、なぜ秋津嶋宮が、卑弥呼の王宮であるかを説明しなければならない。そのためには卑弥呼が、どこの誰であるかを明らかにする必要がある。私がここを卑弥呼の王宮跡と主張する理由は次のようなものである。

 京都府宮津市に籠(この)神社という古い神社がある。この神社の宮司家、海部(あまべ)氏に最奥之秘記として隠し続けられてきた系図がある。『勘注系図(かんちゅうけいず)』である。これは国宝に指定されている。

 その系図の六世孫に、宇那比姫命(うなびひめのみこと)という名前を見る。この宇那比姫命の別名が、とんでもない名前なのだ。その別名とは、大倭姫命(おおやまとひめのみこと)、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大海靈姫命(おおあまひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)。いずれも一人の女性の名である。

 大倭(おおやまと)とは古い時代の日本の国名だ。この女性は「おおやまと」という国名を負う。大倭の姫君、すなわち女王なのだ。また、天造とは天下を支配するという意味で、天下人を意味する。

 さらに、大海靈姫命の靈姫とは、巫女姫(みこひめ)のことで、『魏志倭人伝』は卑弥呼について「鬼道を事とし良く衆を惑わす」とする。このイメージに重なる。最後は日女命だが、日女(ひめ)とは高貴な女性の呼び名で、これに命(みこと)という尊称を付けたものだ。読みは「ひめみこと」。これを魏の使者が「卑弥呼」と書き表したとしても不思議はない。宇那比姫命こそ『魏志倭人伝』が伝える邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼なのだ。

 また、『勘注系図』は、八世孫に天豊姫命(あまとよひめのみこと)という名を記す。この人のまたの名が大倭姫命で、天豊姫命もまた「おおやまと」の女王だ。『魏志倭人伝』は、卑弥呼の後、「歳一三歳」で邪馬台国の女王に擁立された台与(とよ)という女性を記す。この女性の名は豊(とよ)である。これは『魏志倭人伝』の台与と音が同じだ。

 しかも、『魏志倭人伝』は、台与を卑弥呼の宗女、すなわち同族の女とする。天豊姫命は、私が卑弥呼とする宇那比姫命と、同一系図の中にその名を見る同族の女性である。

 だが、この『勘注系図』だけでは、宇那比姫命という女性が系図の上でどのようにつながるのか不明だ。それを明らかにする系譜がある。「先代旧事本紀」の尾張氏系譜だ。その系譜によれば、宇那比姫命は、尾張氏の建斗米命(たけとめのみこと)の子供で、7人兄妹の末の娘にあたる。卑弥呼は尾張氏の女性であり、尾張氏といえば私たちは東海地方の尾張氏を思い起こすが、この尾張氏も、古くは現在の奈良県御所市を本拠地とする葛木高尾張の出身だ。同じく台与も、父親は尾張氏の建諸隅命(たけもろずみのみこと)で、いずれも現在の奈良県御所市あたりの出身となっている。