さらにもう一つ、宇那比姫が登場する系譜がある。静岡県磐田市の国魂(くにたま)神社の宮司家に伝わる『大久保系図』である。この系図に宇那比姫命が登場する。この大久保系図は古代有力豪族、和邇(わに)氏に始まる系図だ。

 この大久保氏系図によると、「押媛命(おしひめのみこと)の母親は建田背命(たけだせのみこと)の妹宇那比姫命なり」とする。この系譜でも『日本書紀』でも、押媛の父親を天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)とする。したがって、宇那比姫命は天足彦国押人命の妻なのだ。そして、天足彦国押人命には、倭足彦国押人命(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)、すなわち六代孝安天皇という弟がいる。

 『魏志倭人伝』は、卑弥呼には「男弟ありて佐(たすけ)て国を治む」として「男弟」がいたとする。宇那比姫命には6人の男の兄弟があるが、すべて兄である。弟は義理の弟となる孝安しかない。「男弟」とは六代孝安天皇に他ならない。『記紀』によれば孝安天皇の宮は、室秋津嶋宮(むろあきつしまのみや)だ。まさに秋津嶋宮こそ卑弥呼の王宮なのである。

 とはいえ、宇那比姫命が卑弥呼であると結論付けるには、確たる物証がほしい。私が卑弥呼の遺品と考える遺物がある。それは東大寺山古墳(奈良県天理市)から出土した中平銘の鉄刀だ。

 中平とは後漢の年号で184年から189年の間とされる。卑弥呼が王位に就いて間もない頃であろう。私はこの鉄刀は、卑弥呼が公孫度(こうそんたく)に朝貢し、公孫度から受け取った刀と推測する。公孫度は、遼東太守(りょうとうたいしゅ)という後漢王朝の地方官であった。

 だが、2世紀後半世になると、後漢王朝の支配力が衰退する。この後漢王朝の衰退に乗じ、公孫度は遼東王を名乗り、この地域に半独立国を樹立する。189年の事とされ、この事によって朝鮮半島を含む極東の政治情勢が大きく変化する。大和朝廷すなわち邪馬台国は、この極東の政治情勢に敏感に反応し、公孫度への朝貢が行われたと推測する。この鉄刀はその時、卑弥呼に贈られた物であろう。それではこの鉄刀がなぜ東大寺山古墳から出土したのかである。

 私が卑弥呼とする宇那比姫命の夫は、天足彦国押人命で、天足彦国押人命は、和邇氏の祖とされる人物だ。したがってその妻、宇那比姫命もまた和邇氏の祖と言える。

 和邇氏の系譜である大久保氏系譜は、宇那比姫命の子供、和邇彦押人(わにひこおしと)は和邇の里にいるとする。和爾の里とは、現在の天理市櫟本(いちのもと)である。東大寺山古墳はこの櫟本に近く、和邇氏の墓域だ。その和邇氏の墓から、卑弥呼が受け取ったと推測される鉄刀が出土したのだ。和邇氏の祖でもある宇那比姫命が、卑弥呼であることの傍証となる。

 そもそも、御所市室から出土したこの遺跡は、秋津遺跡と名付けられた。秋津遺跡は縄文末から、弥生中期、そして古墳時代前期とされる複数の年代の遺構だ。問題はその古墳時代前期とされる、高床式掘立建物を堅固な塀が取り囲む遺構の年代だろう。
4世紀の竪穴住居群が発見された秋津遺跡。右奥は、工事中の京奈和自動車道の橋脚=良県御所市(門井聡撮影)
4世紀の竪穴住居群が発見された秋津遺跡。右奥は、工事中の京奈和自動車道の橋脚=良県御所市(門井聡撮影)
 もし、出土した遺構が卑弥呼の王宮であれば、それは2世紀末頃から3世紀中ごろの遺構でなければならない。ところが、発掘調査に当たった橿原考古学研究所は、この遺構の年代を古墳時代前期とする。すなわち3世紀中ごろから4世紀前半の遺構とする。

 その根拠は大量に出土した布留(ふる)式土器の年代による。布留式土器は古墳時代前期の土器とされる。布留式土器の前の時代とされる庄内式土器は、ほとんど出土していないとされる。また、須恵器が見られないことからこの遺構は4世紀末には終わるとする。

 確かに数多く出土している竪穴住居などは、古墳時代前期の物だ。しかしながら、橿原考古学研究所が方形区画施設と名付ける、堅固な塀に囲まれた掘立建物遺構は、古墳時代前期より古くなると私は考える。