方形区画施設の内部は清浄に保たれていたらしく、年代を推定する遺物はほとんど見つかっていない。そのため、方形区画施設の年代を周辺の竪穴住居との関係でその年代を推測する。だが、その推論に矛盾がある。私は、方形区画施設は布留式土器を伴う竪穴住居より一時代前の遺構と考える。

 そのことを伺わせる理化学的測定値がある。炭素年代測定値である。橿原考古学研究所は、この遺構から出土した木材などの炭素年代測定を行っている。その中で方形区画施設内部にあった掘立建物の年代は、古墳時代前期に収まるようなものではない。卑弥呼が在位した2世紀末から3世紀前半としておかしくない測定値である。

 しかしながら、調査報告書では、炭素年代測定値から暦年代(実年代)を推定する、北半球の標準校正曲線は、この2世紀代から3世紀代に於いて実際より古い値が出るとして、炭素年代測定による暦年代の推定を行わない。確かに北半球の標準とされる校正曲線で推定すると、このあたりの年代では実際より古くなることが知られている。だが、この測定値はそれを勘案しても、相当古い年代であることが予想される。

 そこで、この炭素年代測定値を基に、私が年代を推定したのが次のグラフである。残念ながら日本列島の炭素年代測定値を較正できる信頼できる校正曲線は、まだ開発途上であると聞く。したがって次のような方法で炭素年代測定値の校正を行った。

 年代が分かっている、日本列島産のヒノキの炭素年代測定値がある。そのグラフと北半球、南半球の校正曲線と重ね合わせたのがグラフである。

 そのグラフ上に、最も古い値を示した3点の掘立建物の測定値を書き加えた。炭素年代測定値には±20年の誤差があると見込まれるから、40年の幅で炭素年代測定値を書き込んだ。北半球、南半球の校正曲線を勘案しながら、日本産ヒノキのグラフとの交点を求めた。

 グラフとの交点をどのあたりとするか、多分に恣意的な部分は含まれるが、古墳時代前期に収まるような年代ではあり得ない。少なくとも最も古い年代を示した「方形区画施設5内掘立柱建物SB0040」と、「方形区画施設2内掘立建物SB0030b」は、西暦250年より新しくなることはない。

 もちろん、この炭素年代測定値は資料の年代であって、建物が存続した年代を表すものではない。だが、卑弥呼の在位した2世紀後半から3世紀前半の建物とすることに矛盾はない。古墳時代前期より確実に古いのである。橿原考古学研究所はこれら方形区画施設の年代を見誤っている。もう一つこの遺構が古い時代の物であるとする具体例を挙げる。

 この遺跡から多孔銅鏃(たこうどうぞく)が一点出土している。多孔銅鏃の研究に詳しい研究者によると、多孔銅鏃は、東海地方を中心に2世紀代から3世紀の前半にかけて周辺地域に広がるとする。2世紀から3世紀前半の遺物とされる多孔銅鏃一点のみなら、たまたま古い物がまぎれ込んでいるという推測もありえる。しかし、先の研究者の見解によれば、この多孔銅鏃と同時代の東海系の土器も複数見られ、この遺構が多孔銅鏃の年代まで古くなることを示唆する。橿原考古学研究所が古墳時代前期より古くならないとする見解には疑問がある。

 また、秋津嶋宮が卑弥呼の王宮であることを物語る古墳も存在する。卑弥呼は「径百余歩」の墓に葬られたとされている。一歩は1・44メートルとされ、したがって径百余歩とは、おおよそ150メートル位の円墳であろう。これまで直径150メートルの円墳は日本列島では知られていない。もちろん前方後円墳の後円部などには、これより大きなものも存在する。

 だが、円墳としては埼玉稲荷山古墳の丸墓古墳が直径105メートルで最大とされる。ところが、この秋津遺跡の1キロ北東、玉手山に直径150メートルの尾根が存在する。その尾根上に古墳が存在し、次に示す航空写真で「No1」(次ページの写真参照)とする尾根である。

 当初地元教育委員会は、そこは自然の尾根で古墳ではないとしていた。だが、そこから遺物が出土したことにより古墳と認定した。尾根上に盛り土を行って墳丘をなす。墳丘の盛り土は尾根の中腹に及び、尾根裾は円形に整形されている。尾根全体を墓域とすれば、わが国最大規模の円墳である。私は、これこそ卑弥呼の墓と確信する。