この玉手山という場所が重要だ。『日本書紀』によれば、孝安は玉手山に葬られたとする。孝安は卑弥呼の政治を補佐した男弟である。孝安が葬られたとする玉手山に卑弥呼も葬られたとしても不思議はない。
秋津遺跡周辺の古墳群
秋津遺跡周辺の古墳群
 
 現在宮内庁は、この尾根の北側200メートルの所にある直径13メートル位の円墳を孝安陵とする。しかし、私はこれは本当の孝安陵ではないと考える。

 なぜなら、玉手山には、これよりはるかに大きな円墳が複数存在するからだ。私が直径150メートルとする尾根の南東、写真の「No2」は、長径160メートルの楕円の尾根だ。この尾根上に長径90メートル程の盛り土を持つ、楕円墳が存在する。私はこれこそ、本物の孝安陵と考える。

 卑弥呼は西暦248年か259年頃没したとされる。卑弥呼の墓であれば3世紀中ごろの築造でなければならない。当初「No1」の古墳から出土した遺物は、5世紀末の物であった。だが、後にこの墳丘の盛り土の中から2つの土器片を採取した。いずれも3世紀中頃とできる年代の物である。この古墳の築造年代を卑弥呼の没した3世紀中ごろとして矛盾はない。

 また、「No2」の墳丘盛り土の中からも土器片が出土した。明らかに弥生末、あるいは古墳時代前期の物であり、この古墳も同時代の築造であろう。

 この2つの尾根は自然の地形で、その尾根の上に盛り土を成して墳丘を築く。尾根裾は整った弧を描いており、私は尾根裾に人為的な人の手が加わっていると推測する。

 最初私が、この2つの尾根を古墳であろうとしたのは、航空写真で見た尾根裾の形状による。けっして航空写真で墳丘が、確認できたわけではない。その後の発掘調査でそこが古墳であることが確定した。尾根裾の形状と、墳丘とは密接に関係するのである。

 私は尾根全体を墓域とする墳丘であると考えており、樹木がなければまさに「径百余歩」の円墳である。しかもこの2つの尾根は、私が秋津嶋宮跡とする秋津遺跡の方角から見たとき、整ったお椀(わん)を伏せたような形に見える。秋津嶋宮から望み見ることを意図して、ここに築かれたと考えるのが妥当だろう。

 もし、私が卑弥呼の王宮とする秋津嶋宮の近辺以外の山で、円形の尾根を見たとしても、これを「径百余歩」の円墳などと言い出すことはない。そこが秋津嶋宮から1キロほどの所であり、孝安が葬られた山という事が、これを「径百余歩」の卑弥呼の墓と確信するゆえんである。

 ここまで様々検証してきたが、残念ながら今日の研究者の多くが秋津嶋宮の実在を信じていない。ましてや、そこが卑弥呼の王宮などという説を取り上げることはない。かくして秋津遺跡はその重要性を認識されることなく、自動車道の下に消え去ってしまった。もはや如何(いかん)ともし難いが、卑弥呼の王宮は「奴婢千人が侍る」王宮である。

 私は、秋津遺跡はこれまで出土した範囲以上に広がり、この遺構は西側に広がると考える。西側には小学校や、工場が存在し、発掘可能な場所は限られるが、小規模な発掘なら可能な場所も若干存在する。ゆえに、さらなる発掘調査を行い、この遺構の範囲を確定し、このかけがえのない歴史遺産を保存すべきである。そのために私は、玉手山の尾根が日本最大の円墳であり、「径百余歩」の卑弥呼の墓であることを実証したい。そのことが実証できれば、秋津遺跡の重要性を認識してもらえると考えるからである。