松竹伸幸(ジャーナリスト、編集者)

 月刊誌『新潮45』の休刊をめぐってさまざまな議論があるようだ。その中には、いくらLGBTをめぐる論調に深刻な瑕疵(かし)があっても、雑誌の休刊にまで至るような事態は、憲法の言論・表現の自由という観点から問題があるのではという論調もある。

 新潮社が出した「休刊のお知らせ」を見ても、「『あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現』(9月21日の佐藤隆信社長の声明)を掲載した」ことへの「深い反省」が述べられている。あたかも自社の言論が休刊の理由であるかのように説明されており、そういう論調を加速させているように思える。

 しかし、これは『新潮45』の最後の悪あがきのように見える。ただの商売の失敗にすぎないものを、言論の間違いと関連づけることで、休刊に「崇高」なものがあるかのように見せる詐術のようなものだ。

 「休刊のお知らせ」を見れば分かるように、『新潮45』は「ここ数年、部数低迷に直面し、試行錯誤」していた。他の少なくない雑誌と同じである。その中で『新潮45』は、よく知られているが、右派雑誌の仲間入りすることを目指した。現在の言論界では、右派言論が主流を占めるようになり、左派雑誌は見る影もなくなっている。だとすれば、そういう選択肢はあり得たと筆者も考える。

 だが、もう何十年も前からあまた刊行されてきた右派雑誌の中で、『新潮45』独自の立ち位置をどうするかという点は鮮明でなかったように思える。右派雑誌は雨後の竹の子のように乱立しているだけに、何か独自の路線を持てないと、どんどん埋没していくことになる。

 政治の世界を見渡しても、野党路線を嫌って保守路線を選択した「維新の会」が、自民党との違いを打ち出せないで影響力を失っていくのと同じようなものである。同じ右派なら伝統ある自民党には勝てないのだ。
「新潮45」の休刊を伝える新潮社の文書(撮影・八田尚彦)
「新潮45」の休刊を伝える新潮社の文書(撮影・八田尚彦)
 その結果、『新潮45』の部数低迷に歯止めはかからなかった。そこから挽回を図るため、求められる独自性を他の右派雑誌よりさらに下劣な所に求めるようになったのが、今回のLGBT企画であったと思われる。

 そんな企画で生き残りを図ろうとしたため、必然的に「編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていた」(休刊のお知らせ)のである。そんな雑誌を読者が手に取るはずがない。新潮社の声明は、LGBT企画に「深い反省」をしているようだが、実は読者離れを食い止められず、商売に失敗したということを言っているにすぎない。

 それなのに、「反省」を口にし、LGBTの人や左派の圧力で休刊に追い込まれたと装うことにより、一連の騒動が言論の問題であるかのような構図を描いた。最後の休刊の局面を迎えてさえ、右派に対して左派を攻撃する口実を与えているのである。「最後の悪あがき」と書いたのはそういう意味だ。もし、本当に言論の中身を「反省」しているのなら、どこが間違ったのか、どうすべきだったかを言論で明らかにすることが不可欠であろう。