仲村覚(日本沖縄政策研究フォーラム理事長)

 全国の注目を集める沖縄県知事選は投開票日を迎えた。台風24号が最接近した選挙戦最終日まで激戦が繰り広げられた。急逝した翁長雄志前知事を支えた「オール沖縄」は前衆院議員の玉城デニー氏を支援している。

 オール沖縄陣営は候補選定基準を、翁長氏の遺志を引き継ぐ者と定めたが、候補選びに難航していた。ところが、突然翁長氏の「遺言」テープが見つかったと発表され、そこに名前が挙がっていたとされる玉城氏が擁立されることになり、玉城氏も出馬要請を受諾した。

 さて、ここで言葉の矛盾に気がつく方もいらっしゃるだろう。オール沖縄代表が立候補し、地元紙の世論調査でも接戦を繰り広げているということは、沖縄全体の代表でなく半分の支持しか得ていないことを意味する。つまり、その実態は「ハーフ沖縄」だということだ。オール沖縄の中核も、革新政党である日本共産党や社民党、社会大衆党であることから、ほぼ「革新統一候補」にしか見えない。

 そこで、まずはオール沖縄体制がどのように構築されたか振り返ることで、沖縄の「保革共闘」の歴史を考察したい。きっかけは、2009年9月に発足した鳩山由紀夫内閣で、鳩山氏が米軍普天間飛行場の移設問題について「最低でも県外」と発言したところから始まった。

 それまで名護市辺野古への移設でまとまっていたのに、民主党政権にはしごを外された自民党沖縄県連は、翌年1月に県外移設に舵を切った。同月の名護市長選でも、辺野古移設に反対する革新統一候補の稲嶺進氏が当選し、県外移設を求める流れが加速する。

 その後、2月の沖縄県議会で普天間基地の国外・県外移設を求める意見書が自民党会派を含む全会一致で可決される。4月にも、国外・県外移設を求める県民大会が開催され、そこに仲井真弘多(ひろかず)知事の登壇を執拗(しつよう)に迫って実現することにより、オール沖縄体制が完成したのである。

 翁長氏が注目を浴びるようになったのは、那覇市長時代の12年9月、オスプレイ配備反対県民大会の共同代表になってからだ。13年1月には、沖縄全県の市町村長と市町村議会議長、県議33人のほか、沖縄選出国会議員などを含め、総勢144人が「総理直訴代表団」と称して上京した。

 彼らは、オスプレイ反対集会や銀座でデモ行進した後、安倍晋三首相に対し、全市町村長が署名、捺印(なついん)した辺野古移設断念と、オスプレイ配備反対を訴える「建白書」を手渡した。ここで、オール沖縄体制は「反政府闘争体制」にグレードアップしたのである。
2006年11月、沖縄県知事選に当選し、万歳をする仲井眞弘多氏(中央)と、稲嶺恵一沖縄県知事(左)、翁長雄志那覇市長(右)
2006年11月、沖縄県知事選に当選し、万歳をする仲井真弘多氏(中央)と、稲嶺恵一沖縄県知事(左)、翁長雄志那覇市長(右)
 しかし、この体制は1年も続かなかった。14年1月の名護市長選で現職の稲嶺氏に対し、辺野古移設を掲げる島袋吉和前市長と、引き続き県外移設を公約にする自民県連が推す末松文信県議が、ともに立候補する構えを見せた。保守系の分裂だけではなく、党本部と県連のねじれが表面化してしまったのだ。

 それに慌てた自民党の石破茂幹事長は13年11月、沖縄県選出5人の国会議員を呼び出し、辺野古への移設容認を確認し、候補者も末松氏に一本化された。12月に自民県連が辺野古への移設容認に転換することを表明した時点で、オール沖縄は事実上崩壊したのである。