終戦直後、連合国軍総司令部(GHQ)は沖縄の行政を日本から切り離したものの、連合国の関心が日本の戦後処理に集中した。こうして、沖縄の統治方針は定まらず、場当たり的な軍政が行われ、経済復興も遅々として進まなかった。

 それが、1949年に中華人民共和国が成立し、翌年に朝鮮戦争が起きると、米国も沖縄の基地の価値を重要視し始めた。日本本土上陸作戦のために建設した沖縄の米軍基地が、今度は、大陸の共産主義勢力を封じ込めるために、「太平洋の要石(キーストーン)」として位置づけられ、恒久基地の建設が始まったのである。

 当時のアイゼンハワー大統領は年頭の一般教書演説で沖縄を無期限に管理すると言明していた。つまり、当時の沖縄での「親米」とは米軍に従うだけで、永久に日本に復帰しないことを意味し、日本人の誇りを捨て去った「植民地根性」以外の何物でもなかった。日本への復帰を願う沖縄の愛国者は自然と反米的にならざるを得なかったのだ。

 このような中で、在沖米軍の撤去と、日米安保破棄のために毛沢東が仕掛けたのが、沖縄県祖国復帰闘争だ。沖縄の祖国復帰に反対する人は皆無のため、1950年代以降の復帰運動への参加には保守も革新もなく、島ぐるみで盛り上がりを見せた。そこで、米国は施政権を返還して基地機能を維持する方針に転換した。

 その直後から、中国共産党のコントロール下にあった革新勢力は、基地の残った復帰に反対し、米軍基地の即時・無条件・全面返還を唱え、日本政府と対立するようになる。一方、沖縄自民党は政府と協調し、基地抑止力を残したままでの復帰する方針を採り、保革共闘は事実上崩壊した。

 だが、現在のオール沖縄と同じく、革新勢力の作った「沖縄県祖国復帰協議会」を中心とする復帰運動が、地元メディアではあたかも沖縄の世論のように報じられ続けた。そのピーク時の68年、琉球政府行政主席選が行われ、投票率90%の激戦の末に革新統一候補の屋良朝苗(やら・ちょうびょう)氏が当選した。その後、激しい沖縄返還協定粉砕を唱えるデモが繰り返される中で、71年6月17日に沖縄返還協定が調印され、翌年5月15日に沖縄の祖国復帰が実現することになる。

 わずか27年間とはいえ、激動の占領期間だったが、米軍の抑止力が必要だと認識する沖縄の保守層といえども、米軍の言いなりになっていては復帰が実現せず、単純な親米だけでは沖縄の未来が開けなかったことを知っていたからである。

 日本復帰後から46年後の現在は、軍事覇権を強める中国の脅威にさらされ、米軍の抑止力の重要性がなくなることはない。つまり、73年前に沖縄に上陸し全てを破壊した米軍は戦後に占領軍となり、そして復帰後はなくてはならない同盟軍だ。まさしく「昨日の敵は今日の友」である。
1965年8月、佐藤栄作首相の沖縄訪問の影響で、琉球政府庁舎前で警官隊と衝突した、沖縄県祖国復帰協議会に参加する琉球大生たち
1965年8月、佐藤栄作首相の沖縄訪問の影響で、琉球政府庁舎前で警官隊と衝突した、沖縄県祖国復帰協議会に参加する琉球大生たち
 今、多くの沖縄県民は、理性的な現実認識と歴史的体験による感情を整理できないままでいる。そのような中で、矛盾した県民の心理を、共産主義勢力がターゲットにしている。

 それは、沖縄戦や米軍による沖縄占領の歴史、そして沖縄県祖国復帰運動の歴史を、今後の沖縄の安全保障政策や沖縄の未来構築に生かしていくだけの整理、清算が終わっていないからだ。これこそが、保革共闘の土壌であり、沖縄問題の深因なのである。