そもそもこの一件まで、大田さんは当時首相だった橋本龍太郎さんと17回も会っています。喧嘩して対立していたら17回も会いませんよ。しかも、一対一で、酒を飲みながら17回ですよ。密度が違います。だけど、その中身は誰もわからない。大田さんはその中身を口外しませんでしたから。

 大田さんと橋本さんがこれほど密な関係だったことには理由があるんです。橋本さんのお父さん、龍伍さんが厚生大臣の時、戦時中の学童疎開で輸送中に米軍の攻撃を受けて沈没した「対馬丸」の問題がクローズアップされていました。このため、当時、橋本さんは慶応大の学生でしたが、対馬丸の関係者が龍伍さんの自宅をよく訪れていたんです。

 おそらく、その時にお茶を出したとか、応対した関係で、対馬丸問題に詳しくなったんでしょう。自身は戦争体験はないが、沖縄は大変な思いをしたことを認識し、対馬丸の遺族と接することによって、戦争そのものや沖縄戦、そして沖縄を強く意識するようになったようです。

 だから、普天間飛行場の移設問題のスタートは、実は、橋本さんが、当時財界の中枢にいた諸井虔さん(秩父セメント会長)を特使として沖縄に送ったんですよ。大田、諸井会談がすべてのスタートだったんです。

 この時に大田さんが、普天間の返還が第一優先ですと言ったわけですよ。それで、橋本さんは、沖縄に思いを持っている人だから、外務省や防衛省が反対するにもかかわらず、自らモンデール(米駐日)大使と話をした。そして、大使がクリントン大統領に伝えて話が進んだわけです。

 諸井さんは私にこう言ったことがあります。「稲嶺さん、国民の60~70%のコンセンサスが得られないものについては、いかに沖縄がどんな大きな声で、沖縄だけで言っても、通りませんよ」と。会うたびに何度も言っていた。多く人は、ただ反対するだけだったり、逆に甘い言葉はよく出ます。でも、沖縄のために、きれい事ではなく、本当の話をしてくれる人は少ない。
基地問題で橋本龍太郎首相との会談を終え、報道陣に囲まれる大田昌秀・沖縄県知事=1997年12月
基地問題で橋本龍太郎首相との会談を終え、報道陣に囲まれる大田昌秀・沖縄県知事=1997年12月
 その中で、諸井さんはそうじゃなかった。私に何回も言ったのは、あの人はそれがどうしても重要なことだと思っていたからです。私は、今でもそれを言い続けています。これがポイントなんです。

 私が一番悲しいのは、マスコミが、米国が尖閣諸島は日米安全保障条約の範囲内だと言うとほっとし、それを明確にしないとがっかりするという姿勢です。つまり、国防を国の問題、自分たちの問題ととらえられていないんです。このままでは、沖縄の問題は解決しません。

 国民のコンセンサスを得るためには、沖縄が一つにならならなければ実現できないでしょう。今、大切なのは、沖縄を一本化して、国民のコンセンサスを得られるように努力することです。

 国と沖縄が真っ向から対立し続けたままではマイナスが多いわけです。先方の言うことをストレートに聞くというわけではなく、沖縄が主張すべきことは強く主張しながら、一致点を見出すことが重要でしょう。(聞き手/iRONNA編集部、本江希望)

「対馬丸」事件 先の大戦中の昭和19年8月22日夜、沖縄から九州に疎開する学童ら約1800人を乗せた学童疎開船「対馬丸」が、鹿児島県のトカラ列島・悪石(あくせき)島沖を航行中、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて沈没。学童約780人を含む約1500人が犠牲となった。平成9年の海底捜索で船体が確認された。


 いなみね・けいいち 1933年、中国大連生まれ。慶応大経済学部卒。いすゞ自動車、琉球石油(現在のりゅうせき)社長、沖縄県経営協会会長などを経て、平成10年から沖縄県知事を2期務めた。