貝塚茂樹(武蔵野大教授)

 今年の4月から、小学校では「特別の教科 道徳」の授業が開始された。中学校では、来春2019年度から実施される予定で、この夏に教科書採択が行われた。

 道徳の「教科化」は、安倍晋三内閣主導で強引に導入されたという批判もあるが、歴史的には正確ではない。1945年の敗戦後、教育から修身科が無くなって以降、道徳の「教科化」は常に議論されており、いわば「戦後70年」を通底する歴史的課題でもあった。

 では、なぜ道徳を「教科化」する必要があったのか。その直接的な理由は、1958年に設置された「道徳の時間」の「形骸化」にあったといえる。「道徳教育の目指す理念が関係者に共有されていない」「教員の指導力が十分でなく、道徳の時間に何を学んだか印象に残るものになっていない」「他教科に比べて軽んじられ、実際には他の教科に振り替えられていることもある」などの課題がこれまでも繰り返し指摘されてきた。

 道徳教育は、人間教育の普遍的で中核的な構成要素であるとともに、その充実は今後の時代を生き抜く力を身につけられるよう一人一人を育成する上で緊急な課題である。道徳授業のこうした「形骸化」は、学校教育が子供たちに対する教育の責任と役割を十分に果たしていないということであり、同時にそれは、「人格の完成」を目指す教育基本法の目的の実現を妨げていることを意味していた。

 こうした道徳授業の「形骸化」の基盤には、戦後日本の社会に蔓延(まんえん)した「道徳教育アレルギ―」が影響していることはいうまでもない。それを象徴するのが、「修身科の復活」「価値の押し付け」「いつか来た道」という戦後日本で繰り返し唱えられてきたステレオタイプの反対論である。
中学道徳など中学・高校で使われる教科書を審議した=2018年8月26日、川崎市川崎市(外崎晃彦撮影)
中学道徳など中学・高校で使われる教科書を川崎市教委が審議した=2018年8月26日、川崎市(外崎晃彦撮影)
 ところが、「修身教育の復活反対」を声高に主張する人に限って、修身科のどこが問題なのかという質問にほとんどまともに答えられないし、そもそも修身教科書を読んだことがないというのが実態である。批判の対象である修身教科書を読んだこともない人たちが、何の疑いもなく「修身科の復活反対」を声高に主張する。

 これ以上の無責任なことはないが、この種のお粗末な反対論は戦後日本の社会にあふれてきた。私は、こうした根拠の乏しい感情的な批判を「修身科=悪玉論」と称しているが、「修身科=悪玉論」こそが、戦後の道徳教育を「形骸化」させ、「思考停止」させている大きな要因であるといえる。