こうした流れに位置づけられた道徳科の真の狙い、いわば「裏の顔」とするところは何だろうか。一つは「個人は国家のためにある」という道徳観の徹底である。次に、国家(政策)に疑問を持たない従順な国民の育成である。そして三つ目は、新自由主義政策が進行する中で、社会的格差が拡大し、生きづらさを感じている人々の心象にコミットすることである。

 新自由主義は、ルールなき資本主義体制を基盤とし優勝劣敗をその魂とする。「成功も失敗もすべて個人の問題」という自己責任論を生み出し、敗者は自己の能力と資質の問題として、現時点での生活の責任を個人的かつ全面的に負うことを求められる。政治的には、公助よりも共助が強調されてきており、安倍首相も次のように述べている。

 「私たち自身が、誰かに寄り掛かる心を捨て、それぞれの持ち場で、自ら運命を切り拓こうという意志を持たない限り、私たちの未来は開けません」(第183回国会、施政方針演説)

 道徳科は「どんな社会の中においても、それに順応し個人の責任として生きていくこと」を要請する「21世紀型修身」の役割を持つものではないだろうか。

 とはいえ、道徳教育が必要ないというわけではない。「異なる他者とともに生きる術を学び、よりよい社会をつくるための素地(そじ)となる道徳性」を育てることは教育現場で大切にされなければならない課題だ。

 文科省も「答えが一つではない課題に子供たちが道徳的に向き合い、考え、議論する道徳教育への転換により児童生徒の道徳性を育む」と言う。大いに結構なことではないか。

 しかし、検定教科書や現場で使用されている指導プランを確認する限り、「考え、議論する」と言っても、大半は教師の設定した枠内であり、教材も特定の価値項目、つまり「徳目」に誘導する構成になっている。

 日大アメフト部の問題が社会的な注目を集めた今年だからか、「星野君の二塁打」という道徳教材を思い出す。監督の「バント」という指示に従わず、自分の判断でヒットを打ち試合の殊勲者になった星野君が、翌日監督に呼ばれて次からの試合の出場停止を告げられるというお話である。
教育出版の道徳教科書の教材「下町ボブスレー」に掲載された安倍晋三首相の写真
教育出版の道徳教科書の教材「下町ボブスレー」に掲載された安倍晋三首相の写真
 監督は言う。「いくら結果がよかったからといって、約束を破ったことには変わりはないんだ。ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ」

 この教材の主題は「約束や規則の尊重」である。チームプレーを是とする野球において、監督の指示を守ることは必要なことだ。しかし、このお話を「約束や規則の尊重」という徳目に結びつけていいものだろうか。

 後半部分では「監督の話に最初は不満そうな選手たちも最後は監督の口調に熱がこもるにつれて、星野君の顔から血の気がひいて、他の選手たちもみんな頭を深くたれてしまった」と書かれている。結局のところ、「選手(子供)は監督(大人)の言うことを聞け、そうしなければ罰を与えるぞ」というメッセージになっている。それは強い力(権力)には従順であれ、というヒドゥン・カリキュラム(隠れている教え)に他ならない。