こうした「道徳」教育は疑いを持たずに、上(権力)の命令に服従し、従属的な人間を結果としてつくり出すことにつながる。監督の指示に従わなかった星野君を、集団のルールや秩序を乱す存在として扱うのではない。決まりとは何なのか、ルールは誰のためにあるのか。監督(上の立場の人)の命令は絶対なのか、それが間違うことはないのか、間違いだと感じたらどうすればいいのか。徳目に誘導せずに、話し合えればいいのに、と思う。

 低学年向けの「るっぺどうしたの」という教材は、おさるのるっぺが主人公だ。「わがまま」で言うことを聞かないキャラクターである。「朝一人で起きられない」「靴のかかとをふみながら登校する」。それを友だちに注意されると、留め具を止めていなかったランドセルから文房具を路上に落としてしまう、砂場の砂をクラスメートに投げてしまう。

 授業では「るっぺの困ったところをみんなで話し合ってみよう」「るっぺのようにならないようにするために、自分はどうすればよいか、みんなで話し合ってみましょう」といった点が主要な発問になる。

 しかし、これを読んだある母親は「るっぺは(発達障害を持つ)うちの子にそっくりだ」と言う。この母親は「教材通りに教えてしまっては、周囲と同じように規則正しく行動できない子が、一方的に追い詰められてしまわないか」と、心配が募る一方である。その上で「教材がいじめを誘発する内容になってしまっている。互いの違いを認めて助け合うことを学ぶことこそが大事なのではないか」と主張するのである。(神奈川新聞「カナロコ」2017年)

 母親の指摘は鋭い。規則や集団の秩序に従うことが優先的課題にされてしまえば、道徳教育が「排除の教育」になってしまう。それでは本末転倒ではないか。残念ながら、現場で進行している実践の多くは「答えが一つではない課題に子供たちが道徳的に向き合い、考え、議論する道徳」ではなく、特定の徳目に答えを誘導するものになっているのである。

 それでは一体どうすべきだろうか。まずは「学校の教育活動全体を通して、道徳性を育む」ということを大切にしたい。

 子供たちの社会、つまり教室ではさまざまなトラブルや問題が起きる。そうしたことを、丁寧に話し合いながら解決していくことが求められる。そうした営みの中で、子供たちは異なる他者とともに生きる術を獲得する。それは他者への信頼と自分への肯定的感情を育むものだ。

 そして、道徳性が子供の内面にだけ向けられているベクトルを、大人や社会との双方向のものに転換することだ。道徳性のベクトルは、むしろ私たち大人と社会に向けられるべきものである。
2018年9月、立憲民主党の枝野代表(右)と米ワシントンで会談するサンダース米上院議員(立憲民主党提供・共同)
2018年9月、立憲民主党の枝野代表(右)と米ワシントンで会談するサンダース米上院議員(立憲民主党提供・共同)
 例えば、現実社会で起きているさまざまな問題を子供たちと話し合い、その解決に向けて学び合う。それは検定教科書を使ってもそうした学びを展開することは可能だと思う。根幹にあるのは、日本国憲法に示された国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三大原則であり、具体的には平和教育であり、人権教育ではないだろうか。

 道徳性のベクトルは「全ての人々が、人種、宗教、障害、性的指向に関係なく生まれたときから約束されている(バーニー・サンダース米上院議員)」人権の実現に向けられるものである。そして、社会の公正・公平を毀損(きそん)するものと戦うことが、その中には含まれている。それは社会(国家)の従属物としての「私」ではなく、権利主体としての「私」が世界に登場することでもある。