最後に、日本人の素晴らしい資質について触れて、この稿を終えたい。以前、トヨタの工場を訪れたとき、有名な「カイゼン」の提案書についていろいろと聞いて感動した。中卒で入った方から、博士号を持っていらっしゃる方まで、みんなが平等に提案書を書く。

 その積み重ねで、トヨタ生産方式は支えられている。誰もスターにしない、みんなが平等である。

 提案書一通で、確か数千円の報奨金がもらえるとおっしゃっていた。

 それで、画期的な提案をしたら、もっと報奨があるのか、とうかがったら、顔を見合わせた後で「年間で最優秀の何点かに選ばれたら、10万円くらいもらえるよな」とおっしゃっていた。

 「そのお金はどうするのですか?」とうかがったら、「みんなで飲んでも、余っちゃうよな」とうれしそうにお答えになったのが印象的だった。

 ちょうど、渋谷が「ビットバレー」などとはやされ、ネットバブルが生まれて、若者たちがちょっとしたアイデアで一獲千金を夢見ていた時代だったので、トヨタの社員の方々の笑顔がまぶしく、尊く思われた。

 科学研究は、サッカーのパス回しのようなものだと思う。ゴール近くでシュートして得点を決めた人も偉いが、パス回ししてそこまでボールを運んできた人たちも、もちろん偉い。

 森でネズミをつかまえたタカは、その狩猟能力を褒めたたえられるべきだが、そのネズミを育んだのはタカではなく、森の豊かな生態系である。

 一度に3人までというノーベル賞のルールは、ネズミをつかまえたタカの方ばかりを褒めて、そのネズミを育んだ森の方に光を当てないことになりかねない。

 日本人は、もともと、一部のスターや天才が世の中を変えるという「フィクション」ではなく、みんなが力を合わせるという生態学的リアリズムに寄り添って生きてきた。

 そんな文化を持つ日本人だからこそ、ノーベル賞を祝いつつ、同時に、ネットワークの方にも目を向けることはできるはずだ。

 そこには、ボールをパスしてきた人や、ネズミを育んだ生態系や、また、発明や発見という形で「切り分け」できる問題ではなく、しかし人類にとって大切な課題に黙々と取り組んでいる人たちがいる。
トヨタ自動車元町工場の生産ライン=2018年7月、愛知県豊田市
トヨタ自動車元町工場の生産ライン=2018年7月、愛知県豊田市
 量子力学の観測問題や、時間の非対称性、生命とは何かという大問題、意識の起源、意味論の深淵(しんえん)。これらの課題は、ノーベル賞の対象にはなりにくいが、知的探求全体から見たら、むしろこっちの方が大切である。

 少子化の問題や、格差のこと、貧困の問題、介護のこと。教育のこと。これらの現場で直面している問題だって、ノーベル賞対象の研究と同じくらい難しい。

 世の中には、さまざまな方々が、さまざまな現場でがんばっている。それらは、皆、等しく尊い。日本人だからこそ、そのようなバランスのもとに、ノーベル賞をめぐるさまざまを眺めることができるはずだ。

 一つ救いなのは、相変わらずのメディア・スクラム、お祭り騒ぎの新聞やテレビなどのレガシーメディアに比べて、ネットの反応はより冷静、実証的で、生態学的な豊かさにも目が配られているということだ。

 レガシーメディアの方々に、奮起を促す。軽薄なお祭り騒ぎではなく、これからの人類にとって本当に必要なことはなにか、本質を見極めた報道をこそ、期待したい。