田辺功(医療ジャーナリスト)

 毎年10月の科学記者の仕事は、何といってもノーベル賞だ。日本人が受賞、と分かると記者は一斉に飛び出し、解説記事、電話対談、座談会の企画、友人や家族の喜びの声などの取材に走り回る。今年も本庶佑・京大特別教授が医学・生理学賞に決まり、わが後輩たちはきりきり舞いの忙しさだったはずだ。

 私が第一線記者時代の受賞者は1981年の福井謙一・京大教授(化学賞)、1987年の利根川進・米マサチューセッツ工科大教授(医学・生理学賞)だった。

 まったくの不意打ちだった福井さんの後は毎年、「念のために」と十数人の候補者が挙げられ、そのうちの2、3人は予定原稿が準備されていた。しかし、ほとんどが空振りに終わり、通信社からの電報を翻訳した後は持ち込みのビールで「残念会」をしたものだった。

 たまたま取ってあった1986年の連絡メモには、翌年の利根川さんを含め、その後受賞する4人が含まれていた。利根川さんの受賞決定を受け、私たちは新聞に解説記事を載せたが、同じ免疫分野の研究者でライバルだった本庶さんは、利根川さんが研究規制のないスイスにいたからできた仕事と、悔しさをにじませて語ったのを覚えている。がんの治療薬の開発に成功した上での受賞で、本庶さんは追いつき追い越した気分だろうと思う。

 利根川さんの後は「日本人」の受賞が途絶えていた科学系ノーベル賞だったが、2000年の白川英樹・筑波大名誉教授(化学賞)から急増した。
ストックホルム市内のホテルで会見する白川英樹・筑波大名誉教授=2000年12月
ストックホルム市内のホテルで会見する白川英樹・筑波大名誉教授=2000年12月
 私が新聞社に在籍していたのは2002年の田中耕一・島津製作所フェロー(同)まで。2012年の山中伸弥・京大教授(医学・生理学賞)は16人目、2015年の大村智・北里大特別栄誉教授(同)が21人目、そして本庶さんが23人目になる。他に文学賞、平和賞が4人いる。

 ところで、日本人はノーベル賞好きで、騒ぎすぎではないだろうか。私は1980年代からそう感じていた。きっかけは米西部で暮らす日本人研究者と話したことだったと思う。

 彼はニューヨークの研究者が受賞したことを知らなかった。当時の米国は全国紙がほとんどなく、東部の研究者の受賞は西部で報道されていなかったからだ。その上、カリフォルニア大学ロサンゼルス校などはたくさんの受賞者がいて、ノーベル賞は珍しくない。いろんな分野でさまざまな賞があり、優劣をつけるものではない、といったような意見にうなずいた。

 「騒ぎすぎはマスコミでしょ」と言われたこともある。確かにそうした面は否定できない。ニュースは「初めて」が1番大きく、2番目、3番目となるに従って扱いが小さくなるのが普通なのに、日本のノーベル賞報道はそうなっていない。