その後、官兵衛が豊前を領したとき、短期間で多くの者たちの改宗に成功したという。その中には、自身の子息、長政や筑後の毛利秀包(ひでかね)も含まれている。これだけでなく、多くの武将に改宗を持ちかけ成功した(『日本史』)。それゆえ官兵衛は、イエズス会から大いに頼りにされたのである。これは、禁教を推進する秀吉の悩みのタネでもあり、方針に反する行為だった。

 秀吉が大活躍した官兵衛に対して、わずか豊前・中津しか与えなかった理由は、これまで俗説がまかり通っていた。「官兵衛を恐れた秀吉は、九州の僻地(へきち)に押し込め、石高も最小限に抑えた」というのはその代表的な見解だろう。官兵衛を過大評価した、典型的な解釈である。実際は官兵衛がキリシタンであり、熱心に信仰を周囲に勧めることが気に入らなかったのだ。

 秀吉は官兵衛に対し、豊前国を与える件について、次のように罵倒した(『日本史』)。

 「汝(官兵衛)はそれ(豊前国を支配すること)に価せぬ。(豊前を)統治する能力もない。汝(官兵衛)はキリシタンになっただけでは満足せず、諸国の君侯(大名)や他の貴人たちに対して、キリシタンの教えを聞いて洗礼を受け、当初抱いていた神々(仏教、神道)への信仰を捨てるように盛んに説教し、説得し続けてきたのであるから、汝(官兵衛)に国(豊前)を与えるわけにはいかぬ」と(秀吉は)言い、さらに彼(官兵衛)に対して幾多の罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせかけた。

 秀吉は官兵衛に豊前を治める器量がないと、面前で言い切っているのだから、もはや両者の関係は決裂状態だろう。官兵衛がキリスト教の信仰を周囲に勧めるのも気に入らなかったらしい。おまけに、詳しくは書かれていないが、秀吉は続けて官兵衛に幾多の罵詈雑言を浴びせかけたという。それでも秀吉が官兵衛を起用し続けたのは、彼の能力が高かったからと推測される。

 次の記述を見る限り、秀吉は官兵衛を高く評価しており、実は3カ国を与えようとしていたことがわかる(『日本史』)。

 その後、(秀吉は)彼(官兵衛)に3カ国を授けるような期待を抱かせておきながら、豊前国しか与えず、しかもなおその(豊前国の)の一部を接収して(毛利)壱岐守に授け、汝(官兵衛)がキリシタンゆえにこれを没収したのだ、と(秀吉は)言った。

 このように、秀吉は官兵衛を高く評価しており、最初は内々に3カ国を与えると約束をしていた。それは、キリスト教の棄教との交換条件だったのだろうか、結局は3カ国どころか、豊前・中津だけになったのは、先述の通りである。ただし、3カ国というのは、具体的にどの国なのかは不明である。
伝黒田如水肖像(滋賀県長浜市の樹徳寺所蔵)
伝黒田如水肖像(滋賀県長浜市の樹徳寺所蔵)
 ところが、この話はまだ終わっていない。官兵衛は相変わらずイエズス会の肩を持ち、秀吉に種々交渉を行った。官兵衛がイエズス会の側に立って発言した際、秀吉は次のように激高したという(『日本史』)。

 「汝(官兵衛)はまだバテレンどものことを話すのか。汝(官兵衛)がバテレンに愛情を抱いており、また汝(官兵衛)がキリシタンであるために、汝(官兵衛)に与えるつもりでいたもの(領地)の(うち)、多くを取り上げたことを心得ぬか」と(秀吉は)答えた。

 秀吉は官兵衛がキリスト教の信仰を止めず、それどころかイエズス会に寄り添った態度を取るのが気に入らなかった。官兵衛が本来与えられる領地を取り上げられたのは、彼がキリシタンだからだ、と秀吉は明快に答えている。『日本史』の別の記述によると、官兵衛が多くの人々をキリスト教に改宗させたので、秀吉は官兵衛に数カ月間会わなかったと記す。2人の関係は、険悪だった。