このように関係が悪化したのだから、官兵衛は秀吉に対し、強い憎悪の念を抱くのはやむ得ないところである。キリスト教に迫害を加える秀吉について、官兵衛は次のような感想を持っていた(『日本史』)。

 拙者(官兵衛)はこのたびの悪魔的な動揺と変化(秀吉による官兵衛への罵倒)を、この上なく憂慮している。だが我らの主(デウス)が(秀吉を)かく許し給うからには、そこには極めて正当な理由が存するはずである。(中略)だがデウスは、かかる極悪人(秀吉)を罰さずにはおかれぬから、拙者(官兵衛)が思うには、(秀吉はこれ以上)長くは生き得ないだろう。

 官兵衛はデウスの意志としながらも、秀吉はそんなに長生きをしないと断じている。主君の死を願っているのだから、秀吉への憎悪の念を推し量ることができる。ただ、官兵衛は秀吉と口論におよぶことはなく、一方的に罵詈雑言を浴びせ掛けられるだけだった。それは、秀吉が主君だったからで、決して口ごたえできなかったからだろう。しかし、キリスト教関係者には、秀吉への不満を正直に吐露していたのである。

 こうして秀吉と官兵衛の距離は着かず離れずのまま保たれるが、文禄・慶長の役により決定的に破綻する。

 文禄元(1592)年3月から、秀吉は全国の大名たちに朝鮮半島への出兵を指示した。当初、日本軍は破竹の勢いで進軍し、朝鮮半島全土を占領する勢いだった。しかし、義兵が日本軍への抵抗を活発化させ、李舜臣(り・しゅんしん)率いる水軍が日本軍を打ち破ると、とたんに情勢は不利になった。苦境に追い込まれた日本軍は、新たに手を打たねばならなかった。以下『日本史』により、秀吉と官兵衛との間にいかなることがあったのか確認しておこう。

 文禄2年6月、秀吉は明に対して和平の条件を伝えたが、一方で、秀吉は朝鮮半島の海辺に12の城郭を作るため、官兵衛を派遣して現地の武将に命じるように手配した。手順は、まず官兵衛が全軍の指揮を執り、現地の武将を率いて全羅道を攻略し、その後、12の城を築くというものであった。ちなみに、秀吉の命令は絶対であり、決して逆らったり、意見したりすることはできなかった。
光化門近くの広場に建つ李舜臣の像=韓国・ソウル(鴨川一也撮影)
光化門近くの広場に建つ李舜臣の像=韓国・ソウル(鴨川一也撮影)
 しかし、現地の武将たちの間では、まず12の城を築き、その後、全羅道を攻略すべきであるとの見解が大勢を占めた。防御施設をしっかり作った方が安心できるからであろう。秀吉の命令とは、手順がまったく逆である。そこで、官兵衛は彼らの意向を踏まえ、他の重臣とともに秀吉のもとを訪れ、現地の方針を伝えた。このことが、官兵衛に最悪の事態をもたらすことになる。

 朝鮮に駐屯した武将たちは、現地の情勢を踏まえて、秀吉の作戦について変更を「お願い」するつもりだった。しかし、この頃の秀吉は度重なる敗戦に神経質になっており、自身に反対意見を述べることを許さなかった。秀吉に面会しようとした官兵衛は、次に示す通り、想定外の悲惨な目に遭ってしまう。

 朝鮮にいる武将たちのこの回答と意見は、大いに関白(秀吉)の不興を買った。彼(秀吉)は、少なくとも(朝鮮全羅道)を一度攻撃した後に使者を寄こすべきであったと言い、彼ら(朝鮮に駐屯中の武将)を卑怯者と呼んだ。なおまた官兵衛に対して激高し、彼(官兵衛)を引見しようとせず、その封禄と屋敷を没収した。

 秀吉からすれば、一度は命令を聞いて朝鮮全羅道を攻撃し、その後に相談に来るべきであって、自分の命令を最初から無視するのはけしからん、ということになろう。その交渉の使者が官兵衛だったが、秀吉と官兵衛はキリスト教をめぐって対立する状態にあった。秀吉の怒りは激しく増幅し、官兵衛に封禄と屋敷の没収という厳しい処分を科した。これは「見懲(こ)り」といい、諸大名に対する見せしめの一つだった。