この話がまんざら嘘でないということは、文禄2年5月25日付前田玄以書状(駒井重勝宛)により明らかである(「益田孝氏所蔵文書」)。この書状によると、官兵衛は文禄2年5月21日に名護屋城の秀吉のもとを訪れ面会を求めたが、追い返された事実が判明する。官兵衛は秀吉の指示通りの作戦を実行しなかったので、不興をこうむったのである。もう一度、官兵衛は秀吉を訪ねたが、結果は同じことだった。

 秀吉の逆鱗に触れたため、官兵衛は次の通り出家に追い込まれた(『日本史』)。

 官兵衛は剃髪(ていはつ)し、権力、武勲、領地、および多年にわたって戦争で獲得した功績、それらすべては今や水泡が消え去るように去っていったと言いながら、如水、すなわち水の如しと自ら名乗った。かくて彼(官兵衛)は息子(長政)がいる朝鮮に戻るのが最良の道であると考え、その地に帰っていった。彼(官兵衛)は関白(秀吉)に謁し得ることを望んでいたが、それはなんら彼(秀吉)からの寵愛を得んとしたからではなかった。なぜなら彼(官兵衛)は、もはやすでに年老い、長政の所領である豊前に隠居し、救霊のことに専念したいと願っていたのである。

 官兵衛は天正17(1589)年に家督を子息、長政に譲っていたので、実害はなかったといえるのかもしれない。

 これまで官兵衛引退の件に関しては、病気によるものであるという説が主流だった(秀吉を恐れて早い引退を決断したとも)。若い頃の官兵衛は、荒木村重が籠(こ)もる有岡城で、1年余にわたる幽閉生活を余儀なくされた。それにより頭髪が抜け落ち、膝にも傷病を負ったという。また、朝鮮出兵後、病により帰国したこともあった。
黒田官兵衛の顕彰碑=兵庫県姫路市 
黒田官兵衛の顕彰碑=兵庫県姫路市 

 ところが、『日本史』で経緯を読む限り、官兵衛が出家をしたのは、朝鮮半島における作戦をめぐり、秀吉から勘気をこうむったというのが事実らしい。官兵衛が病気などの理由により引退したという通説とは、大きく異なっている。

 ただ、こうした史実について、裏付けとなる日本側の史料が乏しいのは、誠に残念であると言わざるをない。また、フロイス『日本史』の史料的な評価も十分ではなく、今後の課題である。たとえば、禁教を推進した秀吉の評価が辛く、キリシタン大名には甘いというのは一例である。しかしながら、『黒田家譜』のように官兵衛を顕彰することに一色になっておらず、ある意味でリアルな姿を伝えていることは誠に興味深い。

 このように、官兵衛は秀吉から厳しい制裁を受けたのだが、後年は秀吉に対して憎悪の念がなかったような感想を漏らしている(「吉川家文書」)。そのような心境の変化がなぜ生じたのかは不明である。

主要参考文献
渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書y)