橋場日月(歴史研究家、歴史作家)

 天正2(1574)年、浅井久政・長政父子と朝倉義景の首を薄濃(はくだみ)にして正月の酒席に供するという、現代人にとっては衝撃的な演出をしてみせた信長。

 だが、それは価値観が違うわれわれだからそう感じるだけで、人の首を見るなど日常茶飯事の戦国時代はまた話が違う。なにせ、当時の女性の覚書『おあむ物語』には、合戦で味方が獲ってきた生首に女性たちがお歯黒をほどこすシーンまであるぐらいなのだから。

 『信長公記』でこの3人の「首」が出された場面は前回にも紹介したが、「それぞれが謡い遊興し、なんともめでたい結果になったと喜んだ」とある。これをアレンジした『甫庵信長記』でも、「この肴(さかな)で下戸も上戸もみな飲もう、とそれぞれが歌い、舞って、酒宴はしばらく終わらなかった」「信長公は皆が数年にわたって苦労して功績を重ねてくれたおかげだ、こんな肴で酒宴を開けることになったのは本当にめでたいことだ、と仰(おっしゃ)った」と、一同は浮き立つように酒宴を楽しむ情景が描かれている。

 「みんな、信長が怖くて楽しんでいるふりをしたのだろう」と思うところだが、『おあむ物語』など見る限り、どうやら酒席の人々はまんざらお芝居ではしゃぐふりをしてみせたわけではなく、案外本気で喜んでいたのかもしれない。

 『信長公記』にも『甫庵信長記』にも、「薄濃」にされたのは「首(こうべ、くび)」だと書かれている。これだと生首かともとられそうだが、いくら秋から冬にかけてとはいえ、生首を3カ月あまりもそのまま保存しておけるものだろうか? 塩漬けや酒漬けにしたところで、そうそう長くはもたないだろう。

 肴にされた浅井長政側の史料『浅井三代記』は100年近く後に成立したもので信頼性はとても低いのだが、「肉を取り去って(漆で)朱塗りにした」と書かれている。

 つまりドクロにされていたということだ。この部分に限っては、それが合理的ではないか。織田家の正月の宴に出された3人の首は、ドクロだった。
※※画像はイメージです(GettyImages)
※画像はイメージです(GettyImages)
 ちなみに、この3人のドクロの頭頂部が切り分けられて盃(さかずき)にされ、信長の家臣たちが回し飲みさせられたなどというエピソードを聞いたことがある方がおられるかもしれないが、それはこの『浅井三代記』が「盃の上に御肴にぞ出しにける」と書いてあるところから誰かが想像を働かせた創作―と言いたいところなのだが、それがどうもそうとばかりも言い切れない節がある。