残る屋長島・中江の二城と本拠の長島は希望のない籠城に突入したが、特に篠橋城から多くの者たちが逃げ込んだ長島は兵糧の準備も乏しく、地獄の飢餓状態に陥っていく。

「城中の男女に餓死者が殊の外多く出ているようだ」

と信長はその陥落も間近いことを予期し、9月29日に一揆勢が長島から退去しようとするのを認めるふりをした上で、船で城内からこぎ出してきたところを鉄砲で一斉に撃ち倒させた。みるみる殺されていく仲間たちの姿に、死に物狂いになった一揆勢は織田軍の手薄なところに突撃をかけ、生き残った少数だけが大坂まで逃げていったという。

 敵の意外な抵抗に怒り狂った信長は、その日のうちに屋長島・中江の二城に四方から火をかけた。渇水により陸の上はすっかり乾燥しきっていたこともあり、火はあっという間に回って2万人という籠城者をすべて焼き殺してしまったという。まさに地獄の業火をこの世に出現させたようなありさまだっただろう。

 この日、彼は陣を払い、岐阜城へと凱旋(がいせん)の途につく。

 ドクロの誓い通りにまず長島一向一揆を殲滅した信長。彼は滞陣中に

「大坂を皆殺しにする準備を最優先にせよ」

と細川藤孝に書き送っている。一向一揆の本尊、大坂本願寺に総力戦を挑もうというのだ。
武田勝頼の銅像=山梨県甲州市
武田勝頼の銅像=山梨県甲州市
 干ばつがもたらした渇水により長島一向一揆攻めを成功させた信長。彼は、桶狭間の戦い以来続いている龍・大蛇の神通力による「水」の制御がここでも自分に味方したことに気をよくしていたことだろう。

   それは、彼が龍そのもの、つまり自らが神の力を備える存在だと信じる方向へと彼を導いていくきっかけとなったようだ。

 そして、彼の自信を絶対の確信へと変える大作戦が、この後に待っている。明くる天正3(1575)年4月21日、甲斐の武田勝頼が1万5000の兵を率いて徳川家康領の三河国の東部へ侵入し、各地を脅かした後、5月11日に長篠城を包囲したのである。

 これに対し、信長は徳川家康からの応援要請を受けて2日後の13日に岐阜城を出陣する。信長一世一代の大合戦、「長篠の戦い」の火蓋が切られたのである。