ほかにも、堺諸座役料なるものがあった。戦国期の堺には同業組合としての座は知られておらず、なぜ座が残っていたのか不明である。平野郷(大阪市平野区)の豪商・末吉氏に対しては、信長が堺南北馬座を認めた例が唯一である。

 今井宗久は信長に対して、塩合物(塩で処理した魚・干魚の総称)の過料銭の徴収の許可を求めている。おそらく宗久は、以前から塩合物についての特権を保持していたと考えられる。千利休も、和泉国内や泉佐野の塩魚座から何らかの収入を得ている。秀吉は盛んな経済力に目を付け、商工業の団体からさまざまな形で上納金を得ていたようだ。

 さらに、秀吉は商人を積極的に活用することにより、戦争の準備を円滑に進めようとした。文禄・慶長の役の際には、兵糧の米を大量に集めるため、博多で銀10枚で80石という米相場にもかかわらず、秀吉は銀10枚で77石あるいは70石(本営のある名護屋)という高値で買い上げると言った。こうして米を買い占めた。

 博多では500石積の船の運送料が銀で約60枚だったが、名護屋では銀で約70枚となった。つまり、名護屋では銀10枚程度の儲けになるので、豪商たちにとって大きな利益となった。豪商は運送だけでなく、蔵入米や各種物産の管理もしていた。

 ところが、やがて秀吉の時代は終焉する。

 慶長3(1598)年8月に秀吉が亡くなると、その莫大な遺産は子息の秀頼に継承された。残念ながら総額は不明であるが、相当な額だったのはたしかであるといえよう。しかし、慶長5年9月の関ヶ原合戦において、秀頼はほとんどの蔵入地を失った。それでも、豊臣家の財政は豊かだった。

 秀頼は慶長19年に方広寺(京都市東山区)の大仏の造営に着手したが、それは秀吉の豊かな遺産があったからだった。ところが、皮肉なことに方広寺の梵鐘(ぼんしょう)に刻まれた「国家安康」の文字が徳川家康を呪ったものと解釈され、同年から大坂冬の陣が開始する。

 豊臣方には1人として大名が味方をしなかったが、代わりに馳せ参じたのは、各地で失業生活を送っていた牢人(主人を失い秩禄のなくなった武士)たちだった。むろん、彼らの目当ては戦後の恩賞だけでなく、当座の生活資金として支給された金銀だった。豊臣家は秀吉の遺産を元手にして牢人をかき集め、徳川との戦争に踏み切ったのである。兵糧や武器・弾薬の購入にも、秀吉の遺産がつぎ込まれた。
大坂城(ゲッティ・イメージズ)
大坂城(ゲッティ・イメージズ)
 慶長20年5月の大坂夏の陣で、豊臣家は滅亡した。いち早く家康は金座の後藤庄兵衛に命じて、大坂城内に残る金銀の調査を命じた。結果、城内から金2万8060枚、銀2万4000枚を見つけ出して没収した。当時の庶民の間では、金が2、3枚もあれば金持ちだとされていたので、膨大な額である。

 秀吉は「算勘にしわき男(そろばん勘定にやかましい男。ケチ)」と称されたが、その経済感覚は優れたものがあった。それだけの才覚がなければ、とても天下統一などはできなかっただろう。そこには意外にも、幼少時から青年期に至るまでの「金の苦労」が少なからず影響しているのかもしれない。

主要参考文献
脇田修『秀吉の経済感覚』(中公新書)