実際、日野は事件後の取材に対して、男子中学生が自分の楽屋に謝罪に訪れたことなどを挙げ、「俺と彼との間には親子関係に近いものがあり、問題はない」とも語っている。

 また、体罰を「ケースバイケース」で、「許される場合もある」と大人が口にすることの危険性を、松本や松本の意見の賛同者は気付いていないのだろうか。体罰がケースバイケースで容認される世の中であれば、図々しい加害者ほど「自分は体罰をしてもいい」と思い込むだろう。子どもを虐待死させてしまった親が「しつけのつもりだった」と弁解することはよく知られている。

 スタンフォード監獄実験の例を挙げるまでもないが、人は与えられた権限によって増長する。しかも教育現場は「密室」の状態になりやすい。

 いったん暴力の権限が与えられたとき、それを行使せずにいられる人の方が少ないだろう。教育現場での指導者と被指導者の関係の危うさ、構造の中での強弱関係を認識していない人だけが、したり顔で「ケースバイケース」を口にする。

 人間というのはときとして感情的になるものだから、言うことをきかない子どもに暴力を行使したくなる衝動を理性で止められないこともあるだろう。普段、「いい先生」と認識されている人が「ついカッとなる」ことはあると思う。

 しかし、それを行ってしまった大人がやるべきことは、「正当性のある暴力もある」と主張することではなく、素直に「手段として暴力を選んだことを謝罪する」ではないのだろうか。

 さらに松本は、「我々世代の人はすごく体罰を受けたけれど、今の時代ではそんなものありえへんってみんなよく言うじゃないですか? でも、なぜ今の時代にありえないのか、明確な理由を誰も言ってくれないんですよ」「なぜ今はダメで、昔はよかったのか、明確な理由が分からないんですよ」とも語っている。

 なぜ今はダメで、昔はよかったのか。こんな問いの答えは簡単だ。昔は今のように子どもの人権が守られていなかったから、体罰を辞めてほしい側の意見が通らなかったのだ。

 国連で「子どもの権利条約」が採択されたのは1989年、日本が批准したのは1994年。松本の子ども時代には、「子どもの権利」の概念がそもそも広まっていなかったのだ。子どもの権利なんて昔だって守られていたと主張するのであれば、それは不勉強が過ぎるだろう。

 松本は続けて「体罰を受けて育った僕らは今、変な大人になってないじゃないですか? なんなら普通の若者よりも常識があるわけじゃないですか?」とも語っている。絶句である。

 体罰について「今はダメでなぜ昔はよかったのか」程度の問いについて、周囲の誰からも回答をもらえない(もしくは、遠回しに諭されていても気付かない)大人が、常識があってまともなのだろうか。かつて若者から絶大的に支持されていた芸人がただの老害となっていく瞬間を、私たちは目撃している。