一方、イギリスには統一的憲法典は存在しない。「日本国憲法」「〇〇国憲法」のような「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国憲法」などという名前の法典は存在しない。

 ただし、憲法そのものは存在する。「衡平(Equity)」「伝統(Common Law)」などと呼ばれる法原理そのもの、それらに基づく判例、大憲章(マグナカルタ)に始まる歴史的文書、議会法のような憲法として扱われる重要な法律、習律と呼ばれる重大な慣例、等々の体系がイギリスの憲法である。時に、「フェアプレーの精神」も憲法として扱われる。

 イギリスでは相手の人格を否定する最大級の罵倒語が、「アンフェア」だとか。わが国で「卑怯」(ひきょう)と名指しされたら、いかな沈着冷静な武士も激高(げきこう)したようなものか。イギリスは憲法政治の母国とされるが、長い歴史の中で卑怯な振る舞いをした政治家が制裁を下されることによって、慣例が確立してきた。

 イギリス人が統一的憲法典を持たないのは、条文よりも運用が大事なのだと知っているからである。もっとも、それができるのは世界でイギリス人だけであるので、いまだに「憲政の母国」として尊敬されるのだが。ちなみに、伊藤博文はイギリスの実情を調査し、これをまねすることを早々とあきらめている。

 ところで、1215年制定の大憲章がいまだにイギリスでは憲法として扱われているのに、驚く向きもあるのではないか。わが国が「十七条憲法」をいまだに憲法の一部と見なしているようなものか。

 もちろん、今となっては裁判で使われる法規範ではないし、近代的な憲法の要件を満たしているわけではない。しかし、イギリス人は「法によらない刑罰を下してはならない」「国王は好き勝手に税金を取ってはならない」など、今となっては当たり前のことが当たり前ではない時代のことを忘れないために、過去の遺物とは扱わないのだ。

 聖徳太子憲法第八条には「役人は遅刻早退するべからず」とあるが、「常識的範囲の遅刻」という概念が存在する今の霞が関を見るにつけ、十七条憲法は「死文化」しているようにも思える。というのは冗談としても、第一条「和を以て貴しとなす」も死文化しているだろうか。

 良くも悪くも、日本人は「和」の民族であり、仮に「これからの時代はグローバル化だから、和を大事にしてはならない」などと憲法典に書き込んだとしよう。それで日本人の民族性が変わるだろうか。良くも悪くも「空気を読む」日本人の民族性が変わるとは思えない。
大正時代の教科書「尋常小學國史」にある聖徳太子の記述(大空社復刻版より)
大正時代の教科書「尋常小學國史」にある聖徳太子の記述(大空社復刻版より)
 長々と徒然なるままに保守とは何かを書いたが、本題は「今どきの若者は保守化しているのか」である。その狙いは、70代以上の全共闘世代の投票行動が政治を左右しているとみられ、その対比としての若者分析だ。

 ここで三流の言論人ならば、テレビや新聞しか見ない老人は情報弱者だが、ネットや保守の著作で真実を知っている若者は安倍政権を支持しているなどと、したり顔で説教を始めるだろう。

 たとえば、自分に都合のよい世論調査を探してきて、もっともらしい「データ分析風」の講釈をたれて、自分の固定客に媚(こ)びた言説をまき散らして小銭稼ぎをする光景が目に浮かぶ。大学生の卒業論文なら目こぼしもできようが、プロの言論では立証されていない議論に意味はないので、「全共闘世代の悪あがきにトドメを刺せ」式の読者を気持ちよくさせるための言論をする気はない。

 さてさて命題は、「今どきの若者は保守化しているのか」である。常識で考えよ。しているわけがないではないか。それが「安倍政権を支持しているか」との定義ならば、なおさら。

 そもそも今の時代に、政治に多大な関心がある若者がどれほどいるのか。大正デモクラシーの政治運動が最も盛り上がった時代の大学では最も人気があるサークルは弁論部だったが、今はそんな話は聞かない。平成初頭の政治改革が最も盛り上がった時代ですら、どこの大学弁論部も新人勧誘に苦労していたくらいだ。