信長は、それほど高貴な色とされた黄色を臆面もなく自分の旗印のテーマカラーとしていた。しかも、1世紀半前の中国「明」の皇帝、永楽帝の時代の銅貨である永楽通宝を意匠として。

 信長のために弁護するならば、一時は織田氏と並ぶ存在だった尾張緒川~三河刈谷の大勢力だった水野氏も永楽銭(白地)を旗印としていた。

 それは永享7(1435)年に関東公方の足利持氏が京の幕府に近い長倉義成の討伐に失敗する経緯を記した『長倉追罰記』(合戦後まもなく書かれたという)で参陣した水野氏について「永楽の銭は三河国水野が紋」と紹介されていることからも、信長よりかなり早い時代に織田氏が永楽銭をなんらかのモチーフに採用していた可能性もかなり高いと思う。

 その一方で『旗指物』(高橋賢一著、新人物往来社)を見ると、馬印そのものが元亀の頃から使われ始め、信長が金(黄)に永楽銭の紋様を旗印とした、と説明されているので、第6回で紹介したように、銭まじないの効果を信じていた信長としては、先祖が採用した永楽銭の紋様が、偶然にも自分の好みに合っていたために旗印にも取り入れたということだろうか。

 しかし、その旗印を掲げて上洛し畿内を支配するということになると、話は変わってくる。ただでさえ使用を遠慮すべき尊貴の色である黄を使うだけでなく、その中に俗なものの代名詞とも言える銭の紋様を配した旗を京にひるがえす信長に対して、中国的教養に富んだ公家や仏教勢力は「なんだ、この田舎者の物知らずめ」と鼻で笑い、織田軍を蔑(さげす)みや嫌悪の目で見ただろう。

 それでも信長は意に介さなかった。この日も、黄色地に永楽銭の旗印を掲げて都に戻ってきたのだ。その次には彼の親衛隊である母衣衆(ほろしゅう)20人が通り、さらに護衛役の馬廻衆100人が露払いとなって、いよいよ信長自身が見物の群衆の前を通った。

 「上総殿(信長)支度皮衣なり、眠り候て通られ候」

 信長は毛皮勢の衣を着て、馬上居眠りをしたまま通り過ぎていったのである。まさに絵に描いたような田舎者の姿、だった。

 いくら反発を受けても暖簾(のれん)に腕押しとばかりの態度で押し通す信長。銭の呪力を信奉していたとしても、無用な反発を生むのは得策ではないとも思われるのだが、彼の真意はやがて明らかになっていく。

 居眠りをしてしまうほど本願寺との戦いに全精力をつぎこんだ信長。しかし、彼は休む間もなく次の戦場へと向かって行く。それがこの直後の、「長篠の戦い」だった。
武田勝頼画像(東京大学資料編纂所所蔵模写)
武田勝頼画像(東京大学資料編纂所所蔵模写)
 実は、信長は三河・遠江の同盟者、徳川家康の使者から東三河に武田勝頼の軍勢が侵入してきたと知らされ、本願寺との戦いを切り上げて京に戻ったのだ。馬の上でも寸暇を惜しんで睡眠をとっておこうとするのも無理はない。

 4月27日に京を出発、28日に岐阜城帰着。5月13日に3万8000の軍勢を率いて岐阜を出陣、18日に武田軍によって包囲攻撃されていた長篠城の西方、設楽原(したらがばら)極楽寺山に着陣する。