よく知られているように、このとき信長は諸方面から鉄砲とその射撃手を引き抜き、設楽原に集結させている。戦場に投入された鉄砲の数は一般に3000挺。彼は設楽原を流れる連吾川の西に連なる山地をすべて陣地化し、前面に柵と空堀を設け、そこへ武田軍を誘い込んで銃撃戦で撃滅しようと考えていたのだ。

 だが、信長着陣の5月18日は、現在の暦に直すと7月6日。まだ梅雨が明けない時期だ。戦国時代も同様で、この前後の4月25日、5月2日・11日・18日・21日・23日・27日と雨が降っている(『多聞院日記』)。

 しかし、合戦当日の21日、設楽原には雨は降らなかった。多くある長篠の戦いの画(え)の中で最も年代が古く、合戦から30年ほど後の制作と考えられる「長篠合戦図屏風」(名古屋市博物館蔵)には、扇を広げて用いている武者が何人も描き込まれている。当日は暑かったという記憶が、まだ関係者に残っていたのだろう。実はこの年も「日照り」が発生し、奈良でも「近頃炎天」が続き、雨乞いの祈祷も行われるほどだったのだ。

 雨さえ降らなければ、鉄砲はその威力を十二分に発揮できる。未明、ひそかに長篠城を包囲する武田軍別動隊の背後に迂回した酒井忠次らは信長から与えられた500挺の鉄砲を一斉に放って敵を撃破。長篠城は解放された。

 こうなると、設楽原方面に移動して信長本陣をにらむ態勢をとっていた武田軍は、撤退しようとしても背後を織田・徳川連合軍から追撃される上、長篠城の鉄砲500挺が脅威となって身動きできない。正面の織田・徳川連合軍は「兵たちを配置につけた様子を隠蔽した」(『信長公記』の記述を口語訳)ため、勝頼は正面突破を狙って攻撃をしかけた。

 だが、隠蔽された無数の鉄砲がその武田軍に向かって火を噴いたのだ。

 武田軍は織田・徳川連合軍が放つ銃弾を浴び、なんとか柵まで取り付いた者も次々と敵兵の刃に倒れていった。『信長公記』によれば、一斉射撃によって武田軍の攻撃部隊はその過半数が戦闘不能になったという。
長篠古戦場に再現された柵と堀
長篠古戦場に再現された柵と堀(愛知県新城市)
 こうして山県昌景、土屋昌次、真田信綱・昌輝兄弟と、武田家自慢の猛将・勇将たちも鉄砲で撃たれて戦場に屍(しかばね)をさらし、武田軍は壊滅的な損害を受けて一敗地にまみれた。

 実は、合戦前の15日、信長は部下にこう書き送っている。

 「天の与えるところであるから、皆殺しにしてやる」(信長書状を口語訳)

 「天の与え」という言葉は『信長公記』でも使われているから、信長は設楽原に移動してきた武田軍と決戦する絶好の機会をとらえ、殲滅(せんめつ)の意気込みを周囲にも公言していたのだろう。

 だが、もし雨が降り続いていたなら。

 当然鉄砲の力は半減、それ以下となり、長篠城を解放することもできないし、柵と堀に頼った白兵戦しか行えない。それでは敵を殲滅することもできず、武田軍は最悪の場合でも余力を残したまま悠々と退却することができただろう。

 梅雨時にもかかわらず、前年の長島一向一揆攻めと同じく日照りによって大勝利をつかんだ信長。まさに、水を操る大蛇や龍の力を遺憾なく発揮した合戦だった。これによって、彼の自信はますます深まったのだった。